FC2ブログ

第1161回・旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店

s_P5260452.jpg

鳥取県倉吉市東仲町にある旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店の建物は、昭和6年(1931)に建てられた鉄筋コンクリート造の銀行建築。国の伝統的建造物群保存地区である打吹玉川の一角にあり、町家や土蔵が建ち並ぶ同地区では珍しい洋風建築である。

s_P5260458.jpg

現在は草木染や雑貨を扱う店舗として活用されている。
小規模ではあるが、当時の地方都市ではまだ珍しかった鉄筋コンクリート造で、意匠もセセッション風の凝ったものとなっている。外観は創建時の佇まいをよく残しており、内部もかつての吹き抜けの痕跡が残されているなど、往時の面影をよく残している。

s_P52604592.jpg

2階正面の中央には日本産業貯蓄銀行の行章と思われる星形の装飾が施されており、両脇の付柱の上部にはメダリオン飾りが施されている。カブなどの野菜を思わせるユニークな形をしたこのメダリオンは、側面の壁面にもひとつだけ施されている。

s_P52604512.jpg

(一社)全国銀行協会の「銀行変遷史データベース」によると、日本産業貯蓄銀行は大正5年(1916)に設立された銀行で、大阪に本店を置いていたが、設立からわずか17年後の昭和8年(1933)には破産している。

s_P52604522.jpg

破産した当時の騒然とした様子を伝える興味深い新聞記事を、神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で見ることができる。

s_P5260459.jpg

「本支店とも一斉に今朝期して差押え 日本産貯 預金者俄然躍動」(昭和8年9月7日付大阪毎日新聞)
記事の一部を下記に紹介したい。なお、記事見出しの「日本産貯」とは日本産業貯蓄銀行のことである。

s_P5260457.jpg

「・・・山陰地方は六日夜出発の小野村弁護士が松江支店、中尾弁護士が倉吉支店、近藤弁護士が預金者委員と共同で米子、境、安来の三出張所、吉田弁護士が鳥取支店、磯野弁護士が三朝出張所をそれぞれ執達吏をして備附の金庫はいうまでもなく銀行の資産ならびにこれを明かにする諸帳簿の一切を一瀉千里に差押えることとなった・・・」

s_P5260456.jpg

日本産業貯蓄銀行は大阪に本店を置いていたが、上記記事によると倉吉のほか鳥取、米子、松江など、山陰地方に多くの支店を展開していた銀行だったようである。

s_P5260453.jpg

銀行店舗としては短命であったが、建物は内外装共に創建時の佇まいを残し、90年近い歳月を刻んで今日に至っている。
スポンサーサイト



第1160回・旧吾妻第三小学校校舎

s_P2160104.jpg

群馬県吾妻郡中之条町中之条にある「中之条歴史と民俗の博物館 ミュゼ」の建物は、明治18年(1885)に旧吾妻第三小学校校舎として建てられ、大正中期から昭和50年代までは中之条町役場として使用されていた。地元の大工棟梁によって建てられた明治初期の擬洋風学校建築である。群馬県指定重要文化財。

s_P2160099.jpg

昭和53年(1978)に新庁舎竣工によって中之条町役場としての役目を終えた後は、文化財として保存修復工事が行われ、竣工当時の姿に復元された。

s_P2160100.jpg

白漆喰塗りの壁に縦長の硝子窓が並び、隅を西洋建築の石積み(コーナーストーン)のように仕上げるなど擬洋風建築としての特徴が見られるが、正面中央に配された玄関まわりには寺院を思わせるような装飾が施されている。

s_P2160097.jpg

中之条町の棟梁である樋田栄太郎によって明治15年(1882)に着工、5,200円の工費をかけ3年後の明治18年(1885)に竣工した。

s_P2160106.jpg

外観は擬洋風、内部構造は和風の典型的な明治初期の擬洋風建築である。

s_P2160098.jpg

正面中央部分は上層と下層で和洋が入り混じったような外観を見せる。

s_P2160109.jpg

玄関上部の彫刻飾り。

s_P2160102.jpg

昭和57年(1982)より中之条町の歴史や民俗関係資料を展示する資料館として開館し、現在に至っている。

s_P2160110.jpg

博物館の常設展示の内容は各時代毎に非常に充実しており、企画展や講演会なども盛んに行われている。

s_P2160111.jpg

(参考)中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」 ホームページ

第1159回・俳聖殿

s_PB0503362.jpg

前回紹介した伊賀文化産業城(伊賀上野城)のすぐ近くに建つ俳聖殿は、俳聖・松尾芭蕉(1644~1694)を記念する堂として昭和17年(1942)に建てられた。郷土の文化の顕彰に努めた政治家・川崎克が伊賀文化産業城と共に残した記念的建造物であり、建築家の伊東忠太が設計指導を行ったことでも知られる。国指定重要文化財。

s_PB050298221.jpg

伊賀文化産業城天守の三層(展望室)から望む俳聖殿。

s_PB050298222.jpg

特異な形の屋根が遠望できる。

s_PB050313.jpg

藁葺き屋根を載せた門。

s_PB050332.jpg

二層式八角形の円堂で、松尾芭蕉の旅姿を建築物として表現するという川崎の構想に基づいて建てられた。上層を笠を被った頭部、下層は蓑をまとった身体、下層に並ぶ円柱は杖もしくは脚にそれぞれ見立てている。

s_PB050318.jpg

扁額が掲げられた正面が顔に相当する。

s_PB050319.jpg

皇紀2600年に当たる昭和15年(1940)に紀元二千六百年奉祝事業として計画され、松尾芭蕉の生誕300年に先立つ昭和17年(1942)に完成した。

s_PB050329.jpg

設計は川崎の構想に基づき、伊賀文化産業城の設計にも従事した島田仙之助が担当、これに伊東忠太が指導を加えた。施工は地元の棟梁である森本源吉による。

s_PB050331.jpg

上層の屋根は川崎克が所蔵していた芭蕉の笠に見立てたという。当初の構想では屋根は伊賀焼の瓦を用いる予定だったが、設計指導を行った伊東忠太が檜皮葺にすることを勧め、川崎がこれを受け容れたことにより、現在見られる姿となった。

s_PB050323.jpg

法隆寺夢殿など著名な古建築を参考として、伝統的な日本建築の技法を基礎にしながらも、遠景の屋根や軒や柱に数寄屋風の丸太を多用するなど、伝統にとらわれない自由な造形が施されている。

s_PB050322.jpg

芭蕉の命日に当たる10月12日には毎年、俳聖殿を会場に「芭蕉祭」が営まれている。

s_PB050324.jpg

「芭蕉祭」では内部の八角形厨子に安置された芭蕉翁坐像が公開されるが、通常でも正面の格子戸越しに内部を見ることができる。

s_PB050325.jpg

伊賀焼で造られた芭蕉翁坐像。彫刻家の長谷川栄作が原型を作成、伊賀焼の研究だけではなく自ら作陶も行っていた川崎克が焼成したものである。

s_PB050326.jpg

内部には芭蕉祭で入選したものと思われる献詠俳句の額が飾られている。

s_PB050314.jpg

建築で特定の人物を表現したきわめて特異な建造物である俳聖殿は、三重県の指定文化財を経て平成22年(2010)に、国指定重要文化財となっている。

第1158回・伊賀文化産業城(伊賀上野城)

s_PB0502852.jpg

三重県伊賀市の伊賀上野城址(上野公園)に建つ伊賀文化産業城は、地元出身の政治家である川崎克が私財を投じ、昭和10年(1935)に建てた模擬天守。全国各地の城跡に近代以降建てられた模擬天守及び復元・復興天守の中では、最も古いもののひとつである。伊賀市指定有形文化財。

s_PB050277.jpg

近世城郭としての伊賀上野城(上野城)の創建は天正13年(1585)に遡り、戦国武将・筒井定次によって築かれ、その後慶長年間に藤堂高虎によって拡張された。このとき五層の天守閣が築かれようとしていたが、完成間近に暴風雨によって倒壊した。

s_PB050279.jpg

以後、江戸時代を通じて天守閣の存在しない城であった伊賀上野城に初めて天守閣が完成したのは、築城から350年経った昭和10年(1935)のことであった。天守閣を築いたのは当地出身の代議士・川崎克である。

s_PB0502782.jpg

川崎克(1880~1949)は、「憲政の神様」として知られる尾崎咢堂の秘書を経て大正4年(1915)の初当選以来、30年以上にわたり衆議院議員を務めた人物。戦前の三重県選出代議士では尾崎咢堂、濱田國松(元衆議院議長、「切腹問答」で知られる)と並ぶ大物政治家の一人であった。

s_PB0502832.jpg

川崎は地元出身の俳聖・松尾芭蕉や伊賀焼について研究を行い、著作や作陶を行うなど郷里の歴史や芸術に造詣が深い人物でもあった。天守閣の建設も、郷里の文化を顕彰する活動の一環であったと思われる。

s_PB0502872.jpg

余談ながら同郷の探偵小説家である江戸川乱歩(現在の名張市出身)は、青年時代に川崎克に度々就職の世話になるなどの縁があったことから、川崎の没後には伝記の編纂を引き受けたり、子息(川崎秀二)の選挙応援に出向くなどしている。

s_PB050286.jpg

川崎による「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」との理想を込め「伊賀文化産業城」と名付けられた天守は、桃山期の建築様式を基調にした独自のものであり、規模、意匠共に史的考証に基づく復元ではない。

s_PB050309.jpg

窓には創建当時のものと思われるスチールサッシが嵌め込まれている。

s_PB050288.jpg

伊賀上野城天守の建設に先立つ昭和6年(1931)には、大阪城の復興天守が鉄筋コンクリート造で建てられているが、伊賀上野城は川崎の強い意向により木造で建てられた。写真は大天守の1層目。

s_PB050292.jpg

大天守の2層目。建設当初はその名の通り、1層目及び2層目で伊賀の産業や文化についての展示が行われていた。現在は伊賀上野城の戦国から昭和の模擬天守建設に至るまでの歴史を始め、藤堂高虎や川崎克についての展示などが行われている。

s_PB050296.jpg

3層目は創建から今日に至るまで展望台として利用されている。折り上げ格天井には川崎克と親交のあった文化人や政治家による揮毫もしくは絵画が嵌め込まれている。

s_PB050297.jpg

竣工当時の首相であった岡田啓介や、川崎の政治の師である尾崎咢堂の揮毫も見られる。

s_PB050307.jpg

竣工を前に暴風雨で倒壊した慶長期の五層天守の推定復元模型が、現在の天守と比較する形で展示されている。右側が慶長期の天守。

s_PB050293.jpg

伊賀上野城の天守は、戦国の遺構の上に築かれた昭和初期の近代和風建築と言える。賛否はあろうが、これもひとつの近代の優れた文化遺産として捉えたい。

s_PB050280.jpg

川崎克は伊賀上野に伊賀文化産業城のほか、優れた文化遺産というべき建物をもうひとつ残している。これは次回紹介したい。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード