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海運王・日下部久太郎の建築遺産 (あとがき)

全6回に及ぶ「海運王・日下部久太郎の建築遺産」をお読み頂き、ありがとうございます。
以下、記事の作成にあたり特に参考にさせて頂いた資料等を紹介させて頂きます。
関心を持たれた方の参考になれば幸いです。

(書籍・雑誌記事)
日下部同族合資会社 「日下部久太郎の軌跡」 非売品※
馬淵多喜治「濃飛立志伝」岐阜経済新報社 昭和5年
藤森照信・増田彰久「歴史遺産日本の洋館 第三巻 大正編Ⅰ」 講談社 平成14年
             「彩色玻璃コレクション 日本のステンドグラス」朝日新聞社 平成15年
兵庫県教育委員会 「兵庫県の近代和風建築:兵庫県近代和風建築調査報告書」 平成26年 
相庭泰志「舞子ホテル」財界人・皇族・武家・芸術家が住んだ家「由緒正しき宿」の物語⑲ 平成17年
(大塚製薬の社内報「大塚薬報」第610号掲載記事)

(ホームページ等)
函館市史 デジタル版 通説編第3巻 第5編
はこだて人物誌 日下部久太郎
田空間工作所  (旧)日下部邸移築再生工事
岐阜市景観重要建築物:日下部邸移築 【そば処旧吉照庵】
再見 東海地方の名建築家④ 岐阜建築界のパイオニア/佐藤信次郎

※ 「日下部久太郎の軌跡」 は非売品であるが、日下部久太郎に縁のある北海道七飯町では歴史館の蔵書として公開されている。 「濃飛立志伝」と「大塚薬報」は国会図書館で閲覧できる。

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最後に、それぞれの建物の見学(現役の個人邸である函館邸は除く)に際しては、いずれも格別のご厚意を賜りました。関係者の方々に心より御礼申し上げます。

海運王・日下部久太郎の建築遺産  おわり
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第1196回・舞子ホテル新館〔海運王・日下部久太郎の建築遺産⑥〕

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第一次世界大戦後の不況を切り抜けた日下部久太郎は、昭和に入るとホテル業も始め、昭和12年(1937)には神戸邸を改装して「舞子ホテル」を開業、戦前戦後を通じて多くの貴賓、著名人を迎えた。これまで6回に分けて紹介してきた海運王・日下部久太郎が残した建築の最後は、第二次大戦直前に建てられた舞子ホテル新館を取り上げる。

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舞子ホテルは開業後間もない昭和14年から15年(1939~40)頃にかけて、洋館と日本館にそれぞれ増築が行われ、大正の別荘建築と昭和戦前の旅館建築が併存する現在の姿が完成した。写真は洋館の増築部分。

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簡素な外観の離れで、洋館とは短い渡り廊下で結ばれている。庭園側には大きな窓を開き、南側には石畳のテラスを設ける。モダンな意匠の室内については前々回の記事を御覧頂きたい。

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日本館の北側に増築する形で建てられた新館。地階と屋根裏部屋がある木造三階建で、調理場と客室を備えている。屋根は阪神大震災後に新建材に葺き替えられているが、玄関周りと室内は昭和初期の雰囲気をよく残している。

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舞子ホテルの増築設計を行ったのは、工手学校(現・工学院大学)で建築を学び、岐阜市で建築事務所を開いていた佐藤信次郎(1898~1978)という建築家である。日下部久太郎は昭和以降、日下部家に関係する建築設計の殆どを、地元で活躍するこの若い建築家に依頼した。

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佐藤信次郎は依頼に応えて事務所や住宅、ホテルなどの設計を多数手掛け、舞子ホテルとなった神戸邸に代わる邸宅の設計も行った。現存しないが舞子ホテルの敷地北側には、日下部久太郎が晩年を過ごした二代目の神戸邸があった。

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舞子ホテルの近くにあり、戦時中に建てられた旧又野家住宅は応接間や玄関などに舞子ホテル新館と似た造りが見られる。私見であるが、自邸新築に際し建築を勉強したという又野氏は、この建物も参考にしたのではないかと考えている。

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床の間を備えた玄関ホール。右側に置かれた衝立は開業当時からのものであるという。新館の増築によって、洋館にしか無かった客用玄関が日本館にも設けられた。

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中廊下に面して設けられた客室への入口にはそれぞれ踏込や格子戸など設け、独立性の強い造りとしている。また、館内は賑やかな意匠で飾られ銘木を多用するなど、近代以降の料亭や旅館建築に多く見られる特色を備えている。

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敗戦後、舞子ホテルは昭和21年から25年頃(1946~50)まで連合軍に接収され、米軍と豪州軍の宿舎として使われた。接収された和風邸宅の多くは柱や天井板にペンキを塗られたり、床の間を便所にされるなど散々な扱いを受けたが、ここではそのような痕跡は見られなかった。(接収解除後の修復かも知れないが)

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食事用の個室として使われている玄関脇の客室「菖蒲」。新館は食事用の個室のほか、結婚式の出席者のための控室や新郎新婦の準備室として使われている。なお、舞子ホテルは現在、レストラン及び結婚式場としての営業が主で、宿泊部門は休業中である。

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神戸の西郊は現在でも戦前の豪邸がいくつか残されているが、近年は須磨の旧西尾類蔵邸と塩屋の旧ジェームス邸が舞子ホテルと同様に結婚式場やレストランとして活用され、人気を博している。

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新館の玄関の前は一面の竹林になっており、高層マンションが林立する舞子駅周辺とは思えない景色が残されている。結婚式の撮影場所として人気があるようだ。

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旧日下部邸へ続く渡り廊下は柱も天井も全て角材が用いられ、直線的で角張った印象を受ける。景色に変化を付けるためか、廊下を途中で曲げている。この先は前回記事で紹介した待合風の空間に続いている。

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日下部久太郎は舞子ホテルに続き、大東亜戦争が勃発した昭和16年(1941)には函館に近い七飯町の大沼湖畔で温泉旅館「山水」を開業した。舞子ホテル新館と同じく佐藤信次郎の設計で、モダンな和洋折衷の建物である。

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山水は昭和天皇も宿泊された由緒ある宿であったが、残念ながら近年廃業した。現在、建物は不動産会社の管理物件として維持されている。復活を願わずにはいられない。

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舞子ホテルは接収解除後も日下部家が経営していたが、昭和38年(1963)に山陽電気鉄道(株)が経営を引き継いだ。近年まで料亭旅館として使われていたが、平成22年(2010)にイタリアンレストランに業態を改め、現在に至っている。

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新館には客用階段が2つあり、それぞれ異なる意匠が施されている。片方の階段は竹の皮を貼り、もうひとつの階段は木目の美しい板と面取りを施した細い丸太の組み合わせになっている。

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二階洗面所の入口は、寺社建築に見られる花灯窓の意匠が取り入れられている。

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二階の客室「百合」
料亭旅館時代は階下は食事用の個室、階上は宿泊用の客室であった。三階は倉庫として使われている。

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控えの間との境目に穿たれた三連の円形窓。
桂離宮の笑意軒にある円形窓を模したものではないだろうか。

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玄関の真上にある客室「杉」
客室は全て床の間や天井など、異なる造りになっている。

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「杉」は、天井や欄間など特に変化に富んだ客室である。

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欄間は入口の斬新な意匠のものと、縁側にある波型の無双窓が目を引く。無双窓は東海地方では特に好まれたようで、当地の近代和風建築でよく見られる。施主も設計者も東海地方に縁が深いので用いられたのかも知れない。

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二階南側に設けられた、角部屋の広い客室「牡丹」
面取りを施した丸太を組んだ格天井など、格調の高い造りや立地からして新館の中でも最上級の客室と思われる。

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欄間は旧日下部邸大広間棟の廊下にあるものとよく似た意匠が用いられている。日下部家時代の舞子ホテルは川端龍子、頭山満、松井石根など多くの著名人が利用したが、皇族も訪れている。

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昭和天皇の第一皇女である照宮成子内親王(東久邇成子 1925~1961)は舞子ホテルと山水の両方を利用され、山水は昭和天皇と香淳皇后にも利用を薦められたという。実際、昭和29年の両陛下による北海道巡幸時には山水は宿所に充てられている。

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日下部久太郎が2つの宿を開いた時期は、まさに第二次世界大戦に突入する頃であった。大戦により日本の海運業は壊滅、日下部汽船も例外ではなかったが、戦後は函館運送(株)を設立して陸運への転換を図り、日下部汽船も海洋工事を主とした建設会社に転身、現在も日下部建設(株)として続いている。

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二度の世界大戦に浮沈を繰り返しながらも、事業家として晩年まで精力的な活動を続けた日下部久太郎は昭和28年(1953)に83歳で死去した。舞子ホテルはその後日下部家の手を離れ、業態も変わったが、今も変わらない佇まいで盛業中である。

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日下部久太郎氏は実業家として決して知名度は高くはないが、残した建物の数の多さと質の高さはもっと注目されてもよいのではないだろうか。残念ながら紹介した一連の建築群で現在、文化財に指定もしくは登録されているものは無い。今回投稿した一連の記事が、氏の足跡と建築遺産が少しでも注目されるきっかけになれば幸いである。

第1195回・旧日下部久太郎別邸(舞子ホテル)〔海運王・日下部久太郎の建築遺産⑤〕

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前回は神戸市垂水区舞子台にある日下部久太郎の神戸邸(舞子ホテル)洋館について取り上げたが、今回は日本館の紹介である。この邸宅は割合からすると洋館はごく一部であり、日本家屋と庭園が大部分を占めている。洋館と、その奥に広がる和の空間との対比がこの邸宅の魅力を一層高めている。

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神戸邸の日本館は洋館と同じく大正8年(1919)頃の創建で、洋館のすぐ背後に大広間棟と中庭を設け、その奥には居住棟や土蔵を配して回廊で繋いでいる。洋館の脇には使用人部屋などのサービス空間が設けられ、隣接して昭和15年(1940)頃に建てられた新館が建っている。

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門から邸内に入り、正面から見ると洋館しか見えないが、洋館の中へ入ると奥には和風の空間が見える。

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洋館を抜けると中庭があり、数寄屋風の渡り廊下が斜めに横切る形で配されている。舞子ホテルの中に初めて入ったのは20年近く前のことだが、洋から和への鮮やかな転換には強い印象を受けた。

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中庭には、茶道具をあしらった巨大な石燈籠やつくばい(蹲)、七福神の像などの石造物が木々の間に点在している。

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大広間棟と洋館が交差する位置に配された蹲。左手は大広間棟。
奥に見えるのは、中庭の角に張り出して建つ小さな楼閣風の二階家で、元々は茶室などがあったのではないかと思われる。

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渡り廊下から洋館の方向を望む。中庭に設けられた渡り廊下は一部を太鼓橋状に緩やかな反りを付けて変化を持たせ、サービス棟に面した側には葭簀と網代を交互に配した目隠しを設けている。

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楼閣風建物の2階部分。手摺などに意匠を凝らしている。この建物は接客用の大広間棟と居住棟の中間に位置しており、特別な客人を通すために設けた一種の隠し部屋のようなものではないだろうか。

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中庭の北西角には屋敷神が祀られている。

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今は分割して移築された岐阜邸の記事でも触れたが、岐阜邸にも移築前は庭園に面した吹き曝しの渡り廊下があった。日下部久太郎氏は邸宅の造営に際しては渡り廊下を用いた演出を好んだものと思われる。

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渡り廊下の先には茶席の待合を思わせる小空間が設けられ、土蔵及び居住棟、または新館へと続く廊下がそれぞれ伸びている。写真に写っているのは昭和に増築された新館への渡り廊下。

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土蔵及び居住棟へと続く廊下は数寄屋風の船底天井になっており、突き当りに土蔵、その手前に浴室と洗面所が配されており、角を曲がると居住棟に続いている。

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土蔵は現在は改装され結婚式場として使われている。外観及び入口まわりは改装され土蔵の面影はないが、内部は二階の床板を除いて吹き抜けにした他は、元の造りがそのまま残されている。

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大広間棟の奥、土蔵の前に建つ居住棟は数寄屋風の平屋建で、日下部家の居住空間であり、また来客の宿泊にも充てられていたと思われる。5室がL字型に配されており、うち3室が床の間を備えていた。

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現在は南側4室の襖や障子を取り外し、小規模な披露宴会場として使用している。突当りの部屋はかつては竹の床柱に赤い床框を備えた夫人室と思われる座敷であったが、近年床の間が取り払われてしまった。非常に残念なことである。

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日下部久太郎氏が居室として愛用していたという「桐の間」には桐材を多用し、天井材は部屋毎に異なるようである。材木は函館邸や岐阜邸と同様に木曽から調達したという。

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居住棟と大広間棟は短い太鼓橋で結ばれ、天井は唐破風状に仕上げられているが、天井板と丸太の垂木は天井の形状に合わせて曲げられ(もしくは削り出され)ており、驚くべき技巧が凝らされている。

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大広間棟の廊下。左の障子の内側が大広間、右の硝子戸の外は中庭である。

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大広間は24畳の主室と15畳の次の間から構成され、南及び西側に廻された入側縁を含めると60畳を超える広大な座敷である。地下にはボイラー室があり、床脇の違い棚を模した形状の吹き出し口(写真では衝立で隠されている)からは温風が送り込まれていたという。

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大広間の天井は重厚な折り上げ格天井となっており、格間には絹糸の刺繍で鳳凰が描かれている。

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鶴の群れの浮き彫りが施された欄間は、中之島図書館旧松本健次郎邸鴻池本店琴ノ浦温山荘など、明治から大正期の洋風・和風建築の室内装飾を手掛けた彫刻家・相原雲楽の手になるもので、次の間には川端龍子の揮毫による「舞子帆照」と記された扁額がある。

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居住棟などの欄間や書院窓の彫刻、洋館のフクロウを始めとする装飾彫刻も相原雲楽の手による可能性が高い。

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現在、大広間はレストランのダイニング及び披露宴会場として使われている。天井が高いので、日下部家時代から洋式のダイニングルームとしても使われていたものと思われる。社員を招いての昼食会も開かれていたという。

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敷地南側には芝庭を持つ広い日本庭園がある。かつては瀬戸内海や淡路島が一望できたのであろうが、現在は函館邸と同様にマンションに遮られている。なお、屋根は瓦葺であったが阪神大震災後、全て鋼板や新建材に葺き替えられている。

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大広間棟は棟札によると大正7年(1918)に上棟、施工者として名が残されている横田彦左衛門の来歴は不詳であるが、大工や庭師は岐阜から呼び寄せたとされるので、その一人と思われる。

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大広間棟と居住棟の間に架かる太鼓橋は、庭師が中庭に出入りできるよう潜り抜けられるようになっている。

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居室棟を庭園から望む。寄棟屋根の居室棟の後には、左側には土蔵、右側には中庭の楼閣風建物が見える。和風建築における様々な種類の屋根が見られるが、新建材への葺き替えや外壁の改装で些か趣に欠けるのが惜しまれる。

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日下部久太郎氏は神仏を敬う心が篤く、各地の邸宅の庭には1.5米ほどの大きさの丸い御影石の庭石を据え、毎朝その上に立って祈りを捧げることを日課としていたという。居室であった「桐の間」の前にある石がそれと思われる。

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神戸邸が竣工した大正8年(1919)には講和条約によって第一次世界大戦は終結、翌年には日本経済は深刻な反動不況に襲われ、その後の関東大震災も重なり不況が長く続いた。この邸宅は大戦景気の最後の華であったと言える。

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大戦成金の多くは没落し、全盛を誇った鈴木商店も昭和2年(1927)に倒産するが、函館で基盤を固めていた日下部久太郎は主力船を売り払い、北海道方面の営業に力を注いで不況を乗り切った。昭和に入ると神戸邸を改装して舞子ホテルを開業するなどホテル業にも進出する。次回、最後は舞子ホテル開業後の建物について紹介したい。

海運王・日下部久太郎の建築遺産⑥ につづく

第1194回・旧日下部久太郎別邸(舞子ホテル)〔海運王・日下部久太郎の建築遺産④〕

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大正初期の大戦景気で巨額の財を成した日下部久太郎は、函館岐阜・神戸の各地に贅を尽くした邸宅を築いたが、その中でも神戸市垂水区舞子台にある別邸は氏の実業家人生の総仕上げとも言える豪壮な邸宅である。昭和の初めには「舞子ホテル」として改装され、多くの貴賓を迎えた。現在は結婚式場を兼ねたイタリアンレストランとして利用されている。

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明治から昭和初期にかけて別荘地として繁栄した舞子には旧武藤山治邸移情閣などの別荘建築が残されており、旧日下部邸(神戸邸)もそのひとつである。山陽電車の舞子公園駅北側にある敷地を進むと、植え込みの奥に洋館が忽然と現れる。

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第一次大戦当時の神戸は空前の活況を呈し、貿易商社の鈴木商店は三井などの財閥に匹敵する勢いを誇り、多くの「成金」も現れた。須磨、垂水、舞子などの景勝地には旧日下部邸の他にも、「須磨御殿」と称された内田信也邸など多くの豪邸が建てられた。

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舞子浜に面した小山を丸ごと買い取り敷地にしたと言われる神戸邸は、大正8年(1919)竣工と推測されている。半円形の張り出しが特徴的な洋館は煉瓦造で、白い化粧煉瓦(タイル)で仕上げられている。屋根の上には煙突があったが阪神大震災で折れてしまった。

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洋館の様式は、岐阜邸の洋館と同じくユーゲントシュティールに分類される。ユーゲントシュティールはアールヌーボーのドイツ版とも言える様式で、3階窓の両脇に配されたレリーフのように植物などをモチーフとした装飾も多用される。

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硝子の庇は近年交換されたようだが、ほぼ同じ形で再現されている。
玄関ポーチは武田五一の設計による旧山口玄洞邸とよく似ており、この点からも岐阜邸の洋館と同様に、設計者は武田五一である可能性は高い。

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玄関ポーチには2面の大きなステンドグラスが嵌め込まれているが、日下部家の子孫によると創建当初のものではないという。昭和初期の舞子ホテル開業に伴う改装時に付け替えたのかも知れない。

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かつての舞子浜周辺の風景と思われる図柄が訪れる客人を出迎える。北側(山側)は池とその周りに広がる松林、南側(海側)は古風な帆掛け船が浮かぶ海辺の風景である。

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創建当初のステンドグラスは海に浮かぶヨットの図柄であったというが、岐阜邸の洋館と同様にユーゲントシュティールの紋様と風景を組み合わせたものだったのかも知れない。今のステンドグラスも良いが、当初の姿を想像するのも興趣が尽きない。

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来客用の玄関は洋館にのみ設けられている。日下部久太郎は世界進出を目指して大正6年に神戸に本拠を移し、合名会社を株式会社に改組、後には商号も日下部汽船(株)に改めた。この邸宅は日下部家の神戸邸であり、高級船員や外国人などを接待する迎賓館でもあった。

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玄関ホールにあるカウンターはホテルにする際の改装で設けられたものと思われるが、洋館にはバーカウンターのある酒場と撞球台を備えた部屋もあったという。もしかすると元は酒場にあったものだろうか。

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玄関ホールとは太い大理石の円柱で仕切られた階段室があり、その奥に客間がある。フクロウの一刀彫がある階段の親柱は一本の木から彫り出されたもので、欄間のステンドグラスは抽象化されたフクロウの図柄になっている。

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客間は照明器具や家具調度類に至るまで大正時代の姿をよく残している。床には寄木細工が施され、天井の硝子棒を連ねたシャンデリアは2階で人が歩くと、振動によって微かな音を奏でるという仕掛けが施されている。

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短いイオニア式の石柱など、ユーゲントシュティールの造形が施された客間の暖炉。その両脇には腰掛けとしても使えそうな一対の象の置物が置かれている。

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日下部久太郎は年間を通じて岐阜の本宅を始め4ヶ所の邸宅を廻る生活であったが、事業の本拠地である神戸の別邸に滞在する期間が最も長かったという。

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中華風の装飾を施した洋家具はシンガポールから買い入れたものとされるが、神戸の老舗家具工房で雲仙観光ホテル旧山邑邸の家具も手掛けた(株)永田良介商店が製作した。神戸でも横浜家具のような東洋趣味の濃い欧米人向け家具が製作されていた。

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東洋趣味の家具調度類や格天井など、熱海の根津嘉一郎邸を思わせる濃厚なインテリアの客間から写真左後の入口を進むと、舞子ホテル開業後の昭和14年(1939)頃に増築された別棟に続いており、全く趣の異なる部屋が現れる。

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客間とは一転してモダンな和風意匠の洋室。昭和12年(1937)、この年に勃発した支那事変の影響か海運業は低迷状態にあったことから日下部家では神戸邸を改装して「舞子ホテル」を開業、日下部汽船の社員であった久太郎の長男が経営に当った。

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戦前の舞子ホテルについては資料が乏しいが、頭山満松井石根などの著名人も宿泊したという。隠れ家的な宿だったのかも知れない。

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階段室にある硝子戸は地階へ続いており、日下部久太郎が使っていた浴室などがある。氏は高級な仕立ての洋服を着用しフランス製の整髪料を愛用するハイカラな紳士であったという。

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3階の屋根裏部屋まで続いている階段室。3階には丸い色硝子が連なる窓があり、屋根裏にも来客用の部屋が設けられていたのかも知れない。

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2階の書斎か執務室として使われていたと思われる小さい洋室からは玄関ポーチ上のバルコニーへ出られる。欄間に嵌め込まれたステンドグラスには昼と夜のフクロウが描かれている。

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寝室として使われたと思われる大きい方の洋室は、アールヌーボーの提唱者の一人であるスコットランドの建築家、C・R・マッキントッシュの作風を思わせる意匠が特徴。行燈のような形の照明器具が珍しい。

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暖炉も他では見かけない珍しい意匠である。英国留学中にアールヌーボーやセセッションなどの新しい建築思潮に影響を受けていた武田五一が、マッキントッシュの影響を受けたデザインを手掛けていても不思議はない。

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洋館は随所にステンドグラスが多用されており、階段室や2階洋室では照明器具にも用いられている。

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玄関ポーチ以外は全てユーゲントシュティールの紋様か、フクロウをモチーフとした図柄になっている。フクロウは知恵の象徴、或いは夜警という意味で日本では旧総理大臣官邸(現・首相公邸)や警察署庁舎の装飾に用いられているが、これだけフクロウを多用した例は、日下部邸の洋館以外で他に知らない。

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洋館内部の照明器具は、殆どが創建時からのものと思われる。
戦時中の金属回収も阪神大震災も免れて、これだけ残されているのは奇跡的ではないだろうか。

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洋館は大正期らしいハイカラな意匠が随所に見られるが、先述の客間増築部分を始め、昭和期の改装によるモダンな装飾も見逃せない。2階のトイレには南蛮船や魚が泳ぐ図柄のガラスレリーフが残されている。

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いずれも玄関ポーチのステンドグラスや洋館の増築部分と同じく、舞子ホテル開業に伴う増改築が行われた昭和12~15年頃に取り付けられたものと思われる。

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洋館客間の増築部分にある欄間飾りも魚の図柄で、洋館トイレのガラスレリーフと対応したものとなっている。

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瀟洒な洋館の背後には広大な日本館と庭園があり、桃山風の豪壮な大広間棟や数寄屋風の居住棟など、正面の洋館からは一寸想像できない空間が広がっている。次回は神戸邸(舞子ホテル)の日本館を取り上げたい。

海運王・日下部久太郎の建築遺産④ につづく

第1193回・旧日下部同族合資会社〔海運王・日下部久太郎の建築遺産③〕

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前回取り上げた岐阜市米屋町の旧日下部邸(岐阜邸)跡には現在、洋館だけが残されている。日下部同族合資会社の事務所として建てられた煉瓦造の洋風建築で、旧岐阜県庁舎、名和昆虫博物館などと並び、岐阜市に現存する数少ない近代洋風建築である。岐阜市の都市景観重要建築物に指定されている。

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今は跡形も無いが、左側のマンションが建っている場所がかつての岐阜邸跡である。ただ一つ現地に残る洋館は、日下部久太郎が自家の動産不動産を管理する目的で設立した日下部同族合資会社の事務所として、また岐阜邸の洋式応接間として、皇族などの賓客を迎えるのに使われていた。

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日下部久太郎は函館と神戸では海運業を主事業としていたが、岐阜には自家の動産不動産を管理するための日下部同族合資会社を設立した。また、日下部信託株式会社(のち十六銀行に営業譲渡)を設立するなど金融業も営み、岐阜を代表する地方銀行である十六銀行の取締役も務めた。

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竣工年は諸説あり定かではないが、大正3~6年(1914~17)頃と思われる。イオニア式の柱頭を巨大化した玄関上部の装飾や、袖塀の上に置かれた照明燈などアクの強い意匠が目を引く。

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地階と屋根裏部屋を備えており、屋根は反りのあるマンサード屋根となっている。前々回の記事で言及した、日下部久太郎が函館港に建てた「萬世ビル」も、同様のマンサード屋根を持つ洋風建築であったようだ。

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様式的には、19世紀末~20世紀初頭のドイツ語圏における世紀末芸術であるユーゲントシュティールに分類される。神戸邸の洋館にも同じ様式が用いられており、2つの洋館の設計者は同一人物と考えられているが、設計者は武田五一という説もある。

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関西を中心に活躍していた武田五一(1872~1938)は、英国留学中にアールヌーボーやセセッションなどの新しい建築思潮に影響を受け、帰朝後は旧芝川又右衛門邸京都府立図書館などの作品に反映させている。岐阜でも、当時としては斬新な意匠の名和昆虫博物館と昆虫記念館を設計している。

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「建築探偵」として知られる東大名誉教授・藤森照信氏によると、日下部久太郎本人から設計を武田に依頼したと聞いた、という証言もあるという。意匠の質の高さや状況証拠を考えると、設計者が武田五一であるという説は非常に有力と思われるが、確証が無いためか定説にはなっていないようだ。

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洋館の玄関は街路に面した正面と、かつては日下部邸内に面していた側面に設けられている。側面玄関も正面と同一意匠となっている。

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背面からの姿。
屋根の切妻の上に見えているのは暖炉の煙突で、正面側にも同様に設けられている。

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岐阜市には美しいステンドグラスが多数用いられている大正期の洋風建築が2棟存在するが、1棟は以前紹介した旧岐阜県庁舎であり、もう1棟は日下部邸の洋館である。

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2棟とも絵画的な図柄から抽象的な紋様まで、様々な意匠のステンドグラスが残されている。二階の階段室に嵌め込まれているのは菊の図柄のステンドグラス。

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残念ながら下半分が失われているが、同じく二階にあるステンドグラスは藤と燕の図柄。

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欄間の小窓にはユーゲントシュティールの紋様。

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照明燈にもステンドグラスが用いられている。

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正面の石段を登って玄関へ入ると玄関ホールがあり、その先には階段室がある。右手には旧事務所への入口がある。

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本記事の写真は、平成25年3月に旧岐阜県庁舎一般公開の際に訪れたときのものである。この洋館は長らく画廊(石原美術)として使われていたが、現在もこの洋館で営業されているかどうかは分からない。

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一階階段室にある竹の図柄のステンドグラスは内側から見学させて頂くことができた。工芸意匠家としても優れた手腕の持ち主であった武田五一の手による可能性は十分考えられる美しい図柄である。

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玄関ホール欄間のステンドグラス。
神戸邸の洋館でも、似たような意匠のステンドグラスを見ることができる。

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当時としては高級品と思われる大判の一枚硝子を嵌め込んだ、一階事務所の扉。

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一階の事務所にある暖炉。暖炉枠の上部はフクロウの装飾が施されている。

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岐阜邸と神戸邸の洋館には随所にフクロウの装飾が施されている。日下部久太郎がフクロウを洋館の装飾に用いた理由は、幸福を呼ぶ鳥であるからとも、夜行性のフクロウは海運業者にとっては縁起がよい鳥であるからとも考えられているが、真相は謎である。

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日下部久太郎の故郷において氏の事績を伝える建物はこの洋館だけになってしまった。建物自体は他所で形を変えて甦ったが、旧日下部邸が岐阜の地からは失われたことはこの地にとっては痛恨事と言うべきである。

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岐阜を代表する近代洋風建築であり、ステンドグラスが美しい大正の洋館としては、旧岐阜県庁舎と共に全国屈指と言ってもよいこの館が今後も現地で保存、利活用されることを願って止まない。

次回は、日下部久太郎の建築遺産としては質も規模も他を凌ぐ神戸邸(舞子ホテル)を、3回に分けて取り上げる予定である。

海運王・日下部久太郎の建築遺産③ につづく

第1192回・興正寺竹翠亭〔海運王・日下部久太郎の建築遺産②〕

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名古屋市にある八事山興正寺の境内にある竹翠亭は、岐阜市米屋町にあった旧日下部邸の一部である。日下部久太郎の故郷である岐阜の本邸として大正6年(1917)頃に建てられた旧日下部邸は、岐阜市に現存する一級品の近代和風建築であったが、現地での存続が困難になったことから分割して移築されることになった。竹翠亭は一階の主要部分等を移築したものである。

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岐阜市米屋町に在りし日の旧日下部邸(岐阜邸)。かつての本陣跡に建てられ、敷地内には二階建ての主屋と渡り廊下で結ばれた土蔵2棟があり、正門の両脇には高塀を建て、両脇を防火用の煉瓦塀で固めた重厚な構えの邸宅であった。(平成16年(2004)2月の撮影)

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現在の姿。分割して2つの寺院に移築されることになった旧日下部邸は、興正寺には平成20年に正門と塀の一部、主屋一階の主要部が移築され、「普門園」の茶席として再生された。主屋の二階部分は和歌山の高野山蓮華院に移築される予定で、現在は解体材の状態で保存中であるという。土蔵等その他の部分は破却されたものと思われる。

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全景。二階部分は他所で再建されるため、屋根は移築に際して新しく架けられたものである。

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正面向かって右側は、現在は手洗いや水回りなどのバックヤード空間が新設されているが、移築前は坪庭風の小さな庭園に面しており、主屋から延びた吹き晒し、石畳の渡り廊下が敷地奥の土蔵に続いていた。

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裏側には縁側が設けられ、全面に凝った造りの硝子戸を入れた近代の和風建築ならではの姿を見せている。移築前は裏庭に面しており、二階部分も同様に全面に硝子戸を入れていたものと思われる。

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移築された塀の上には、日下部家の家紋が入った瓦が残されている。

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内玄関。移築前はこの左側に使用人部屋や台所があり、その奥にはもう1棟の土蔵があった。台所の土間部分は当時、蕎麦店「吉照庵」の店舗として利用されており、東海地方の和風建築に多い弁柄を混ぜた赤い土壁や天井の太い梁など、隅々まで凝った造りであったことを記憶しているが、これらの部分は破却されてしまった。

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武家屋敷のような構えの正面玄関。竹翠亭は茶事等に使われているが、普門園の拝観料(500円)を払えば抹茶と茶菓子付きで他の園内の建物と共に見学できる。

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正面玄関とその周りは旧日下部邸の姿をそのまま残している。普門園は竹翠亭のほか、旧日下部邸とほぼ同時期の大正7年に建てられた興正寺の大書院や住職の居室棟なども建っており、見どころが多い。当ブログの過去記事もご参照頂きたい。

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かつては使用人部屋や台所に続いていたと思われる位置にある廊下も、欄間などに意匠を凝らしている。

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日下部久太郎は大正6年に事業の本拠を神戸に移したが、会社の事業所は神戸、函館、東京、岐阜の4ヶ所にあり、それぞれの地に邸宅を構えていた。この中で東京の邸宅だけは既存の住宅を買い取ったものであったとされるが、現存しない。

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4つの邸宅は一族もしくは会社の役員に管理させ、自らは2~3ヶ月周期で各地を廻る生活をしていた日下部久太郎は、事業についての連絡や指示を出すためと思われるが「電話魔」と称されるほど毎日のように各地に電話をかけ、毎月の電話料金は夥しい額にのぼったという。

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玄関脇に設けられた応接室は、長押と床の框には割った煤竹を張り付けた煎茶趣味の座敷である。移築前は床脇の障子を開けると外に出られるようになっており、先述の土蔵に続く渡り廊下につながっていた。

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渡り廊下の途中には数寄屋風の手洗と雪隠が設けられ、庭園と一体になった風情ある空間が残されていたが失われてしまったのは誠に惜しまれる。現存する神戸邸でも渡り廊下は趣向を凝らしたものになっており、日下部久太郎のこだわりが窺われる。

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応接室の隣には仏間が設けられ、その先には階下では最も格の高い部屋と思われる主座敷が設けられている。

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仏間の天井は材も造作も見事な格天井である。
周辺部分は除却されてしまったが、中心の主要部分は間取りもそのままに移築、復元されている。

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滞在するのは最も短く年間で1週間程度であったというが、岐阜邸を本宅として所得税を納めていたようである。大戦景気の最盛期における日下部久太郎の納税額は、岐阜市の総所得税額の2倍に相当する額であったという。

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岐阜邸には朝香宮や閑院宮などの皇族も訪問されている。格調の高い造りの座敷が連なる岐阜邸は、日下部家の生活の場というよりも、岐阜を訪れる貴賓を迎えるための迎賓館であったと思われる。

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一代で百万長者になった日下部久太郎は郷土が生み出した立志伝中の人として岐阜では評判になり、岐阜市に代々続く旧家で二代にわたり当主が貴族院議員も務めた渡辺甚吉家も凌ぐ勢いであったとされる。

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床脇には襖が立てられているが、横には窓が設けられており、裏側には花燈窓が開かれているので、押入れではなく水屋が設けられているのではないだろうか。なお、移築前は右側の壁が押入れになっていた。

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茶席としても使えるように造られたと思われるこの座敷で抹茶を頂いた。

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縁側の硝子戸の先には現在の名前の由来となったと思われる竹林が広がっている。この硝子戸も当時のもので、角を丸く取るなど凝ったものとなっている。注目すべきは左側の欄間で、海運王の本宅として実にふさわしい意匠を発見した。

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日下部家の家紋を碇が囲んでいる。海運で家を再興した氏の誇りと海運にかける思いが伝わってくるようだ。

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この邸宅が米屋町でそのまま残せず、また主要部のみを上下に分割する形での移築であるため、失われた部分も多いのは実に残念なことであるが、日下部家の子孫は現地での保存も模索されたものの邸宅を末永く確実に後世に残したいという思いから、最終的にはこのような形での保存を決断されたようである。

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近代以降に建てられた大規模な和風邸宅の一部が移築され、寺院に転用されることは戦前戦後を通じていくつか事例が存在し、古い例では昭和初年に東京から比叡山延暦寺に移築された村井吉兵衛邸の大書院、戦後の例では東京から名古屋の龍興寺に移築された藤山雷太邸の日本館が挙げられる。旧日下部邸の移築もこれらの同種のものと言える。

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和歌山の高野山蓮華院に移築される予定の二階座敷はまだ再建はなされていないようであるが、再建された暁には可能であればぜひ探訪したいものである。

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重厚な岐阜邸は岐阜の地からは姿を消したが、新たな用途を得て他所で蘇った。また、邸内の一角に建てられた洋館はそのまま建っており、海運王の事績を伝える建物がその生まれ故郷から全て姿を消さなかったのはせめてもの幸いである。次回は岐阜邸の洋館部分を紹介したい。

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ところで、本記事で言及した渡辺甚吉家については、14代当主が東京の白金に建てた邸宅を以前弊ブログで紹介したが、残念ながら白金の地からは姿を消すようだ。近日中に解体保管工事が行われ、当面は解体材の状態で保存されるようである。早く新たな地で甦る日が来ることを祈る。

海運王・日下部久太郎の建築遺産③ につづく

第1191回・日下部家住宅〔海運王・日下部久太郎の建築遺産①〕

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明治から昭和にかけて活動した実業家で、「海運王」と称された日下部久太郎という人物がいる。二度の世界大戦の間の約三十年間に、自らの出身地である岐阜、海運業の拠点とした函館と神戸など、各地に趣向を凝らした邸宅や事務所、ホテルなどを建て、それらの多くが今も健在である。日下部久太郎氏の足跡と、現存する建物を函館を振り出しに辿ってみたい。

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日下部久太郎(1871~1953)は、庄屋も務める旧家の次男として現在の岐阜県羽島市に生まれた。衰退していた生家の再興を志し、17歳で北海道に渡り海産物や米の売買に従事していたが、函館で海運業に目を付け、明治41年(1908)には日下部合資会社を設立、当初は専ら代理店業務であったが、大正に入ると自分の持船を所有するに至る。

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大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦により日本経済は好景気に沸いた。特に海運業は船舶需要の激増によって活況を呈し、新造船の建造や船舶の売買・傭船によって巨額の利益を上げ、「海運王」と称される実業家も現れた。神戸の内田信也勝田銀次郎等が著名であるが、函館を拠点に成功を収めた日下部久太郎もそのひとりである。

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大正6年(1917)には世界進出を目指して神戸に本拠を移し、景勝地として知られる舞子浜に豪壮な別邸を築いた。また故郷の岐阜では信託業務など金融業も行い、岐阜市米屋町の本陣跡には重厚な本邸を構えた。なお、神戸に本拠を移した後も函館は晩年に至るまで重要な事業の拠点であり、昭和に入るとホテル業や運送業も手掛けている。

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日下部久太郎の函館邸として建てられた邸宅は末広町にあり、現在も日下部家の住まいとして使われている。大正6年(1917)に建てられたとされており、附属の土蔵と共に函館市の伝統的建造物に指定されている。

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正面から見ると間口の狭い、土蔵付きの瀟洒な別宅といった趣の日本家屋であるが、側面及び坂の下から見上げれば、間口に対して奥行の深い敷地、緻密に積み上げられた高い石垣など、相当の規模の豪邸であることが分かる。

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材木は日下部久太郎の故郷である岐阜に近い木曽から調達し、建設には三年を費やしたという。

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外壁は伝統的な和風住宅ではよく見られる簓子下見板張りという技法が用いられている。材料に贅を尽くすと共に、内外の造作にも相当の技巧が凝らされているものと思われる。

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日和坂の中ほどに面し、高い石垣の上に建っている。函館港の旧桟橋までまっすぐに伸びている日和坂は、港が一望できて空模様もよく判断できたことからこの名前がついたとされ、海運王と称された人物の邸宅にふさわしい立地である。

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かつては邸内から函館港を一望することができたというが、現在はすぐ下には函館市営の集合住宅が建っている。港を見渡すことができたのは既に過去のものとなってしまったようだ。

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土蔵は鉄筋コンクリート(RC)造とされている。度々大火に見舞われてきた函館では、現在国の重要文化財にも指定されている東本願寺別院が大正4年(1915)にRC造で再建されるなど、RC造が早くから導入されていた土地である。なお、防火窓の上に更に硝子窓を設ける二重窓になっているのは、雪の多い寒冷地ではよく見られる造りである。

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函館・岐阜・神戸にある3つの日下部邸には、それぞれ立派な土蔵が備わっていたが、岐阜邸の土蔵は今は無く、神戸邸の土蔵は外観が改装されており、現在も邸宅と土蔵が共にそのまま残されているのは函館邸のみである。

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隣接して建っている別棟は昭和7年(1932)に建てられ、一階を和風、二階を洋風とする函館特有の町家の形式を取っている。日下部久太郎は海運業や金融業等だけではなく土地経営も手掛けており、この家は貸家として建てたのかも知れない。この建物も函館市の伝統的建造物に指定されている。

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現存しないが、日和坂を下った桟橋の傍には「萬世ビル」という洋風建築の事務所も建てている。大正9~15年頃には竣工したものと考えられているが、詳細は不明な点が多い。また、同時期に竣工した洋風建築の函館海産商同業組合事務所の建設に際しては多額の建設費用を寄附している。

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氏の事績を辿ると、建物を造ることに相当の関心と趣味を持っていたことが窺える。
今回の記事を含め、6回に分けて普請道楽とも言える海運王・日下部久太郎の建てた建築の中から、現存し、かつ探訪可能な建物を紹介していきたい。

海運王・日下部久太郎の建築遺産② につづく

第1190回・白鶴美術館

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神戸市東灘区住吉山手にある白鶴美術館は、東洋古美術を中心とした公益財団法人の美術館である。開館は昭和9年(1934)で、戦前から存在する数少ない私設美術館のひとつである。現在も開館当初の建物を中心として運営が行われており、美しい近代和風建築である本館など4棟が国の登録有形文化財になっている。

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住吉川を上流に向かって行くと、西岸に緑に包まれた白鶴美術館の本館棟が現れる。
白鶴美術館は、白鶴酒造創業家の7代目・嘉納治兵衛(1862~1951)が自らの蒐集した古美術品を一般に公開すべく、昭和6年に財団法人を設立したもので、3年後の昭和9年に本館等の施設が完成、開館した。

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巨大な御影石を豪快に積み上げた門をくぐると、石畳の先に事務棟があり、美術館の入り口となっている。昭和13年の阪神大水害、大東亜戦争末期の戦災、平成7年の阪神大震災のいずれも乗り越え、開館当初の施設がほぼそのままの姿で使用されている。

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現在は年に2回、春季と秋季の企画展開催に合わせ一般公開されている。またすぐ南側には、嘉納家10代目当主による中東絨毯コレクションを主とした新館も設けられている。

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事務棟も昭和9年開館当初からの建物で、登録有形文化財である。
玄関ホールからは中庭へ出られるようになっており、重厚な本館を正面から中庭越しに見られる格好の場所である。

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中庭越しに望む本館。中央に配された燈籠は、国宝である奈良・東大寺大仏殿前の金銅製八角燈籠から直接型を取り、写したものという。7代嘉納治兵衛は奈良の旧家の出身で、嘉納家には婿養子として入った。

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建物の設計・施工を手掛けたのは竹中工務店で、昭和戦前期における同社の代表作のひとつである。当時設計部長であった鷲尾九郎が平面計画や実務全般を担当し、その下で小林三造と石川純一郎が意匠を手掛けたようである。(竹中工務店のホームページより)

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鷲尾九郎は以前紹介した大阪の堂島ビルヂングの設計者で、旧宝塚大劇場などの設計も手掛けている。和風建築を得意とした小林三造は名古屋の揚輝荘聴松閣の設計者、モダニズムデザインの建物を多く手掛けた石川純一郎は今は無い大阪・中之島の朝日ビルディングの設計者として知られる。

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事務棟の玄関脇にある応接室の扉。事務棟の内部は外観とは異なり洋風意匠が主となっている。

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美術館の館内は展示室・展示品を除けば、写真撮影も可能である。

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1階に事務室と応接室、2階に集会室を設ける。地階には荷解室等の部屋が配され、美術館の玄関であると共にバックヤードの役割を担っている。

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事務棟と本館を結ぶ渡り廊下。右手に中庭を見ながらこの渡り廊下を歩き、展示室のある本館へ向かう。

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渡り廊下の途中には、これも登録有形文化財になっている土蔵があり、所蔵品の収蔵庫として建てられたと思われる。白鶴美術館の内部空間をより一層魅力的なものとしているこの渡り廊下はなぜか登録文化財に含まれていない。

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本館の内部は、1階に折り上げ格天井が見事な展示室と階段室、2階が漆喰仕上げの格天井を持つ展示室と床の間を備えた貴賓室(現在は展示室として公開)がある。階段室には来館者の休憩用に椅子とテーブルのセットが置かれており、これは開館当初からの家具と思われる。

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卍崩しの腰壁や、擬宝珠を備えた階段親柱、花灯窓など随所に和風意匠を施しているが、主な所蔵品が古代中国の銅器というせいもあってか、全体的に和風とも洋風とも中華風とも言えない、独特の雰囲気を醸し出している。

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事務棟の玄関や渡り廊下、本館階段室には開館当時のものと思われる凝った意匠の照明器具が残されている。
鶴をデザインしたものが多いのは、7代嘉納治兵衛の雅号(鶴翁、鶴堂)に因んでおり、館内には随所に鶴の装飾を見ることができる。

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本館の回廊から中庭及び渡り廊下、土蔵を望む。
阪神大震災で土蔵の屋根が瓦葺から金属板に代わった以外は、創建当初の形態をそのまま残しているものと思われる。

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阪神大震災では、土蔵の屋根や本館展示室の照明器具が失われるなどの被害はあったが、失われた建物は無かった。休館期で厳重に梱包されていたため、所蔵品も無事だったという。

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よく手入れされた中庭の一角には茶室がある。関西有数の数寄者であった7代嘉納治兵衛が、昭和4年(1929)に六甲山の別荘に建てた茶室で、昭和32年(1957)に現在地に移築された。

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この茶室も登録有形文化財となっている。

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背後から見た本館。

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基壇には階段室と同じ形状の花灯窓が見られる。

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戦前から存在する私設美術館は、白鶴美術館のほか京都の藤井斉成会有鄰館、倉敷の大原美術館、名古屋の徳川美術館などがあり、いずれも開館当初の建物が現存するが、その中でも白鶴美術館は展示館である本館だけでなく、庭園や事務棟・渡り廊下などの附属建物と一体となって、ひとつの完成された空間を作り出している点で特筆すべき存在ではないかと考える。

第1189回・旧山口玄洞別宅(圓井雅選堂)

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前回は実業家・山口玄洞が晩年を過ごした京都の旧邸を取り上げたが、大阪市中央区高麗橋4丁目にも山口玄洞の別宅とされる建物が現存する。明治末期に建てられたとされる町家で、現在は古美術商・圓井雅選堂の店舗として使われている。大阪の旧市街では町家自体がごく少数しか現存しないが、商家ではなく居住専用の仕舞屋はとりわけ希少な存在である。

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大阪の旧市街でも中心的な場所である船場の北側、今橋通と高麗橋通の間に「浮世小路(うきよしょうじ)」と称される細い通りがある。大坂城築城時に豊臣秀吉によって整備され、現在でも一部が現役の下水道として使われている太閤下水(背割下水)の上を道路にしたものである。

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現在、船場界隈に現存する町家は、北浜の適塾、道修町の旧小西儀助商店、伏見町の錢高組高徳寮などがあるが、いずれも店舗兼用の住居、即ち商家であって居住専用の町家、仕舞屋は殆ど見られない。

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商家が建ち並ぶ船場にあって、江戸時代より浮世小路には妾宅や遊芸の師匠の住居が多く、仕舞屋が多く存在する街並みは近代以降も続いていたものと思われる。平成の初め頃までは、船場界隈のほか近接の西区江戸堀などでも仕舞屋と思われる構えの町家が企業施設などとして残されていたのを見た記憶があるが、今は無い。

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平成19年(2007)に大阪府教育委員会が刊行した「大阪府の近代化遺産:大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」によると、大阪町家の特徴を残す奥座敷も残されているという。

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古美術商の店舗として一階にショウウインドウを設置するなど、改装はされているが、犬矢来を設けた高塀など、風雅な佇まいは重厚かつ簡素な船場の商家とは異なる趣を見せる。

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商都の町家にふさわしく、うだつ(卯建、梲)には分銅型の巴瓦が取り付けられていた。

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山口玄洞は洋反物商として成功を収めた後は、多くの企業の役員を務めるなど大阪財界で活躍、大正元年には備後町(故郷・尾道の旧国名「備後國」と同じ地名である)に堂々たる土蔵造の店舗を新築するが、それまでの激務が祟って健康を害したことから大正6年に実業界を引退、京都で仏道に精進する晩年を過ごした。

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浮世小路の別宅は、激務の合間の僅かな休息の場だったのだろうか。
なお、山口玄洞は当時の実業家の多くがそうであったように数寄者としても知られ、引退後は表千家の後援者としても活躍したという。その旧別宅が現在、古美術商の店舗として活用されているのは奇縁というべきかも知れない。

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大阪の中心部のビル街で今も残る旧山口玄洞別宅の存在は奇跡的と言ってもよい。適塾や旧小西家などの商家や、近在の大阪倶楽部、住友本店などの近代建築群と共に、船場の地に今後も是非残される事を願う。

第1188回・旧山口玄洞邸(聖トマス学院)

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明治から大正にかけて大阪で洋反物商として財を成し、その多くを公共事業や慈善事業への寄付、寺社への寄進に使い、「寄付王」とも称された実業家・山口玄洞が引退後の住まいとした洋館が、京都市上京区梶井町に残されている。京都を中心に活躍した武田五一の設計で、現在は聖ドミニコ修道会京都修道院の施設(聖トマス学院)として使われている。

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現在の広島県尾道市に生まれた山口玄洞(1863~1937)は、医師であった父親の急死により、家計を支えるために学業を断念、明治11年(1878)には15歳で大阪・心斎橋筋の洋反物店へ丁稚奉公に出た。その後独立し洋反物商として成功を収め、明治37年(1904)には多額納税者として貴族院議員に選ばれるまでになった。

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大正6年(1917)に実業界を引退した後は昭和12年(1937)に死去するまで京都で過ごした。現在残る本邸は大正12年(1923)に建てられたもので、鴨川の西岸、東山を一望できる場所にある。なお、以前旧附属図書館の建物を取り上げた京都府立医科大学がすぐ南側に隣接している。

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建物は原則非公開で、通常は立入禁止のため門から覗くに止める。
主屋は鉄筋コンクリート造り2階建で、武田五一の設計、清水組(現・清水建設)の施工により大正12年(1923)に竣工した。特徴的な玄関ポーチは、現在は舞子ホテルとして使われている神戸の旧日下部久太郎別邸の玄関とよく似ている。

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敷地内には主屋の他に、土蔵、事務所らしい3階建の小さな洋館が街路側に建っている。訪問時は補修のためか足場が組まれていた。

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玄関の欄間にはステンドグラスが嵌めこまれており、室内にも多くのステンドグラスが残されているそうだ。

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北隣は有料駐車場になっており、建物を間近で見ることができた。
東(写真左側)から主屋、土蔵、付属棟が並んでいる。

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外観は比較的簡素なデザインで、腰壁を薄茶色のタイル貼りとする他は外壁はクリーム色のモルタルで仕上げられており、屋根は黒い日本瓦を葺いている。

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中央に配された階段室の大きなアーチ窓が外観のアクセントになっている。

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かつては窓に鎧戸が設けられていたが、現在は殆どが取り外されている。
主屋は洋風建築であるが門や塀、庭園は和風の造りとなっており、茶室もあったようだが存否は確認できなかった。

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山口玄洞は事業家として成功した頃から、公共事業や慈善事業への寄付や寺社への寄進に多くの財を注ぎ込んだ。特に、故郷である尾道へ上水道の敷設費用の大部分を寄付した話は著名である。紅葉の名所として知られる京都・高尾の古刹である神護寺の金堂と多宝塔も、山口玄洞の寄進によって昭和の初めに再興されたものである。

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山口玄洞の住まいは、終の棲家となった京都の本邸のほか、大阪で事業家として活動していた頃の住居も現存する。これは次回に紹介したい。
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