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年末の御挨拶 + 平成三十年を振り返る

本年も残すところあと半日程度となりましたが、年末の御挨拶とさせて頂きます。

多くの方々に御訪問頂きましたことに心より御礼申し上げます。
どうぞ来年も弊ブログを宜しくお願い申し上げます。良いお年をお迎えください。

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(平成三十年を振り返る) 

以下、今年訪問した建物、またはブログに記事を投稿したおもな建物と一寸した雑感等。
(建物名称をクリックすると当該記事にリンクします)

旧木子七郎邸
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記事では敢えて触れなかったが、この建物は大阪府建築士会主催の見学会に参加させて頂き、敷地内から外観を、また玄関先から内部を少し拝観する機会を得た。

旧山口萬吉邸(再訪)
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木子設計の建物は独特の魅力があるが、社交的な趣味人であったと思われる氏の人となりもまた興味深い。

旧鈴木信太郎邸
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仏文学者・鈴木信太郎の書斎は戦前の探偵小説に出てきそうな造りである。

ベルギー王国大使館別荘
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特別公開された中禅寺湖畔の別荘。設計者が気になる。

旧石谷家住宅
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土間の木組みや江戸座敷もすばらしいものだったが、どことなくアールヌーボー調の手摺がある階段に惹かれた。

旧山中正吉邸
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日野商人の本宅・旧山中正吉邸の応接間は時が停まったかのような佇まい。

日暮別邸記念館
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四阪島からの移築復元工事が完了し公開が始まったが、室内撮影禁止は実に残念。

旧日下部久太郎別邸(舞子ホテル)
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日下部久太郎氏が神戸をはじめ各地に建てた建築群を紹介する記事は以前から考えていたのだが、ようやく今年になって形にすることができた。これらの建物の一つでも、国や自治体の文化財に指定される事を願って止まない。
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第1199回・三井港倶楽部

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福岡県大牟田市西港町にある三井港倶楽部は、三井三池炭鉱の迎賓館として明治41年(1908)に建てられた木造洋館。広大な芝庭のある敷地を始め、建物内の家具調度類に至るまで三井財閥の社交クラブ及び迎賓施設として使われていた頃の佇まいがよく残されている。現在はレストランや結婚式場として利用されている。大牟田市指定有形文化財。

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三池炭鉱は江戸時代から採掘が行われていたが、明治に入ると官営を経て明治22年(1889)に三井財閥の所有となり、事務長に任命された團琢磨の指揮の下、急速に近代化・合理化が進められた。その一環として明治41年(1908)には大型船が着岸可能な三池港が開港する。三井港倶楽部は入港する貨物船の高級船員のための接待所として建てられた。

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設計施工は清水組(現・清水建設)による。東京に本拠を置く清水組は旧博多駅や旧日本生命九州支店(福岡市文学館として現存)の受注を機に明治末に九州へ進出、三井港倶楽部もそのような時期に建てられた。

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変化に富んだハーフチンバー(半木造)様式の外観が特徴である。

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庭園側から望む全景。なお、福岡県内には三井港倶楽部と同様に三井財閥の迎賓館として建てられた木造洋館で、大正11年に門司港の近くに建てられた旧門司三井倶楽部も現存する。

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庭園に張り出すように建っている平屋建ての食堂兼広間棟。現在のものは大幅に改造(あるいは改築)されていると思われるが、この裏には付属屋として建てられた木造平屋建の和風建物がある。

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庭園に面して設けられた吹き放しのベランダ。

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急勾配の屋根は日本瓦で葺かれており、鬼瓦には井に三をあしらった三井のマークを見ることができる。

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現在はフランス料理を提供するレストラン及び結婚式場などに使われているが、現在でも「三井港倶楽部」の名称が使用されている。

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玄関ポーチの奥にある正面玄関の硝子戸。

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玄関へ入ると右手に受付、左手には階段室があり、玄関ホールとは一体となった広い談話室に通じている。訪問は12月の中旬であったため、クリスマスツリーが飾り付けられた直後であった。

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ゆったりとした広さの談話室には白大理石で造られた一対の暖炉が設けられており、その片側には事務長(鉱山の最高責任者)として三井三池炭鉱の近代化に絶大な貢献を果たした團琢磨の肖像写真が飾られている。また、玄関のそばには胸像も置かれている。

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鉱山技師として三井財閥入りした團琢磨は、後には三井合名会社理事長として三井財閥の総帥となり、男爵にも列せられている。大正から昭和初年にかけては日本工業倶楽部の初代理事長に就任するなど、財界指導者としても活動するが、昭和7年の血盟団事件により東京日本橋の三井本館前で暗殺された。

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玄関脇には応接間として造られたと思われる洋室がある。家具や壁に掲げられた扁額などの調度品類は三井財閥時代のものが現在も残されており、家具は生地の張り替えなどの修復が施されている。

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かつてはこの暖炉で採掘された石炭が燃やされていたものと思われる。

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庭園に面した部屋のうち、談話室と2つある食堂はいずれもベランダに出られるように造られており、広い芝生のある庭園を散策できるように造られている。

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談話室に隣接する食堂は2つある中でやや小さめの部屋で、斜めに組んだ格子の窓が特徴。

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大きい方の食堂は先述の平屋建の部分に当たる。
館内では最も広い部屋で、園遊会など多目的に使われていたものと思われる。

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談話室及び2つの食堂はいずれも一対の暖炉が設けられている。写真は大食堂にある暖炉のひとつで、近くには重厚な食器棚も残されていた。

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2階への階段は2ヶ所あり、写真の玄関脇にある階段が利用者用で、もうひとつはサービス用と思われる。吹き抜けの上部に設けられた円形の窓が目を引く。

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2階には宿泊用の客室3室と居間1室が設けられており、階段ホールは談話ロビーとなっている。

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宿泊室は3室ともそれぞれ暖炉と洗面台が設けられている。その中でも控室を備えた最も広い部屋は、戦後間もなく三井三池炭鉱を巡幸された昭和天皇が休憩された部屋であり、当時使われた家具や記念写真などが展示されている。

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宿泊室の暖炉。

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宿泊室の洗面台。

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明治期のものと思われる重厚な装飾が施された洗面台や飾り棚も残されている。

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昭和天皇が三井港倶楽部で休息された際に使用された椅子。

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門司の三井倶楽部が敗戦後は財閥解体で国鉄(現・JR)の施設となり、そして国鉄民営化によって移築されるなど時代に翻弄されたために家具調度類も散逸し、建物自体も元の場所を離れてしまったのとは対照的に、三井港倶楽部は家具調度類も含めて元の佇まいをよく残している。

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そのような三井港倶楽部も一時は存続の危機に晒されており、平成16年(2004)に三井鉱山の経営難により閉鎖された際は解体の危機に瀕したという。しかし建物の存続を願う地元の要望が実を結び、翌年には(株)港倶楽部保存会が発足し、営業が再開された。

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平成29年(2017)には現在の所有者である三井松島ホールディングス(株)によって改修工事が施されている。

第1198回・旧塩原御用邸新御座所

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栃木県那須塩原市の塩原温泉には、戦前まで御用邸(塩原御用邸)があり、大正天皇、昭和天皇を始め多くの皇族が利用されていた。現在は明治38年(1905)に建てられた御座所棟だけが近接地に移築、公開されている。栃木県指定有形文化財。

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旧塩原御用邸新御座所は現在、那須塩原市が所有・管理しており、「天皇の間記念公園」として公開されている。

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旧塩原御用邸は、栃木県令(知事)も務めた三島通庸(1835~1888)が塩原に建てた別荘を前身としている。別荘は明治36年(1903)に三島家から皇室に献上され、昭和21年(1946)に廃止されるまで塩原御用邸として使用された。

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現存する建物は、明治38年(1905)に新たに造営された御座所棟の一部である。

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当初は三島別荘を増改築しただけの建物であったが、明治38~39年(1905~06)にかけて新御在所などが増築された。赤い囲み枠の中が現存する部分である。敷地内に源泉を有しており、御座所に面した中庭に浴室棟が設けられていた。

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大正天皇や昭和天皇を始め、多くの皇族が避暑目的で塩原御用邸を利用された。特に幼少期の三笠宮崇仁親王は連年にわたって塩原御用邸を利用されていたことから、「澄宮御殿」とも称されていた。

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戦時中は前回紹介した明賀屋本館太古館と同様に塩原御用邸も女子学習院の疎開先となり、在学中であった照宮成子内親王(東久邇成子)をはじめとする昭和天皇の子女も疎開されていた。

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敗戦後の昭和21年(1946)に皇室財産整理のため塩原御用邸は廃止され、厚生省へ移管、視力障碍者のための施設「国立塩原光明寮」として利用されることになった。なお、国立塩原光明寮はその後「国立塩原視力障害センター」に改編されるが、平成25年(2013)に廃止され、現在敷地は更地になっている。 

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障碍者施設となった旧御用邸の建物は次々と改築され、最後に残った御座所棟も昭和56年(1981)に改築が計画されるが、旧御用邸の保存を望む町民の要望を受けて塩原町(当時)が国から払い下げを受け、現在地に移築した。

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屋根は現在銅版葺きとなっているが、当初は杮葺きであったという。
瓦には菊の御紋が見られる。

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かつて中庭に面していた部分を除き、三方に縁側を巡らせている。

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縁側の内側には畳廊下が設けられている。

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通常の和風住宅ではどちらか片方だけであり、縁側と畳廊下が二重になっているものは珍しい。防護を重視したため、このような造りになったとも言われる。

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主室である御座所。

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簡素な作りの座敷であるが、次の間との欄間飾りや床脇の竪繁障子に装飾的な箇所が見られる。

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日本座敷に洋家具を配置するのは明治期の皇室建築に多く見られるもので、現存する旧沼津御用邸旧日光田母沢御用邸でも同様の設えを見ることができる。

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天井から下がる洋式のシャンデリア。

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天井のシャンデリアとは対照的に、御用邸では伝統的な行燈も併用されていた。展示されている朱塗りの行燈は、当時実際に使われていたもの。

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畳敷きの手洗も復元されている。

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なお、旧塩原御用邸の跡地については、塩原町では現在、旧御用邸周辺住民からの要望も受け、国から購入して公園として整備し、旧御座所を元の位置に再移築する構想を立てているという。(参考)

第1197回・明賀屋本館太古館

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栃木県那須塩原市塩原にある明賀屋本館は延宝2年(1674)の創業とされる老舗温泉旅館で、首都圏から比較的近い位置にある秘湯としても人気の高い温泉宿である。客室棟のひとつである太古館は、昭和8年(1933)に建てられた和洋折衷の木造三階建で、ライト風意匠の外観に特徴がある。現在も食事処及び客室として使用されている。

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塩原温泉郷でも最も奥まった位置にある塩の湯温泉は、江戸川乱歩が昭和初期に書いた長編探偵小説「吸血鬼」の舞台となった。塩の湯温泉には現在も小説の世界を思わせるような温泉宿が今も残されている。

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今回取り上げた明賀屋本館のほか、その向かいに建つ柏屋旅館の別館も昭和10年(1935)に建てられたほぼ同時期の建物である。但し柏屋旅館は主な機能は新館に移されており、別館は客室としては使用されていないようである。

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明賀屋本館も主な機能は建て替えられた鉄筋コンクリート造の本館棟に移されているが、太古館は食事処及び客室棟の一部として今も現役で使われている。

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「太古館」の名は、大正初期に明賀屋に宿泊した徳富蘇峰の命名による。周辺の環境が「静かなること太古の如し」として名付けられたという。

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温泉が湧く鹿又川沿いに本館棟及び自炊棟があり、道路を隔てて山側に建つ太古館とは渡り廊下で繋がれている。元々は和風の二階建であったが、昭和8年にモダンな外観の三階建に建て替えた。

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フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテル旧山邑家別邸を思わせるような外観が特徴であるが、設計者の鈴木慶一郎はライトの下で旧帝国ホテルの設計に従事したスタッフの一人で、のちには東京都の技師も務めたという人物であるという。

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壁面は旧山邑家別邸や自由学園明日館と同様に明るいクリーム色のモルタル塗り仕上げとしており、窓台や車寄、腰壁などに旧帝国ホテルを思わせる茶褐色のスクラッチタイルを用いている。

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曲面を持つ張り出し窓は、当時としては非常に斬新でモダンなものであったと思われる。

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太古館には専用の玄関が設けられているが、現在は使われていない。

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玄関の木製硝子戸。

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玄関ホール。太古館の内部は一階が洋風、二・三階が和風の造りになっている。一階は写真左手にある会議室はもとのままと思われるが、右側は改装されており、現在は厨房として使用されている。

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玄関ホール奥の階段まわりや廊下の柱頭飾りなど、内部にもライト風の意匠が施されている。

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太古館は一見すると鉄筋コンクリート造りにも見えるが木造で、背面の外壁はペンキ塗りの下見板張りとなっている。

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格天井な見事な二階の大広間兼宴会場。ここが宿泊客の食事処として使われている。

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床の間。

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照明器具は戦前からのものが残されている。

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三階は客室となっている。
戦時中には太古館は女子学習院(現在の学習院女子大学)の疎開先としても使われた。

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客室の欄間。

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太古館には著名人の揮毫による扁額も飾られている。大広間には太古館の名付け親である徳富蘇峰(扁額では「荘峯」となっている)の揮毫による扁額が飾られている。宿泊した客室には澁澤榮一(青淵)の扁額が飾られていた。

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本館棟は戦後に建て替えられているが、鹿又川沿いにある露天の浴場へ続く通路は古風な木造の階段がそのまま残されており、秘湯の雰囲気を残している。

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斜面に沿って長く続いている階段。

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最も浴場に近い位置に建っている木造四階建の自炊棟。現在は使用されていない。

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自炊棟の脇を抜けて浴場へ向かう。

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湯治場の趣を今も色濃く残している浴場。

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鹿又川の渓流がすぐ目の前を流れている。近年には大雨で浴槽の一部が流失したこともあるが、直営で復旧されている。

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洋風の外観を持つ戦前の温泉旅館建築自体が希少な存在であるが、ライト風意匠という点でも非常に珍しいのではないかと思われる。

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温泉も建物もすばらしい。
これからも何とかこの姿を維持して頂きたいものである。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

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