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第1212回・小川菊

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小川菊(おがきく)は、埼玉県川越市仲町にある鰻料理店。大正末期に建てられたという店舗は蔵造りの町並みで知られる川越に於いても珍しい木造三階建である。近年耐震補強のための改修工事が行われたが、木製の建具など古い佇まいは完璧に維持されている。

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小川菊がある「大正浪漫夢通り」は老舗が多く並ぶ川越を代表する商店街で、昭和中期には銀座通り商店街と呼ばれアーケードで覆われていた。一時は寂れた商店街であったが、現在では多くの観光客が訪れている。

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平成初期に小川菊や斜め向かいにある旧武州銀行など、和洋の建築群を活かした街を目指す動きが起こり、平成7年にはアーケードが撤去され、電線も地中化された。古い商店建築の多くが改修、再生され、小川菊もその一つである。

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扉や窓などの建具類は改修時に新調されたものも含め、木製で統一されている。二階にあるエアコンの室外機も木製の欄干の内側に置かれ、目立たない工夫がなされている。

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三階部分は地震対策なのか部屋を小さく作り、屋根を銅版葺にするなど軽くする工夫が施されている。小川菊は大正末期の建設とされるので、関東大震災後の建物と思われる。

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隣家との境目には防火壁として築いたと思われる煉瓦壁が設けられている。

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これは第二次大戦中の遺物と思われるが、コンクリート製の防火用水槽。改修前はここにはエアコンの室外機があったので、余所から持ってきたのかと思ったが脇には「小川菊」と刻まれていた。商売用の水槽として再利用されていたのかも知れない。蓋も鰻用の俎板を再利用したようにも見える。

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各地で見られる戦時中の防火用水槽。
小川菊の水槽のほか、これまで当ブログで紹介した建物にあった水槽を並べてみた。

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写真は準備中に撮影したもので、営業時はいつも行列ができる繁盛店である。
店内も昔の佇まいをよく残しているという。いずれ機会を作って入りたい店のひとつである。

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川越は重厚な土蔵造の商家群で知られるが近代建築の宝庫でもある。旧八十五銀行旧山崎家別邸など建築史的価値も高い近代建築のほか、医院教会、明治から昭和初期にかけての商業建築も多く残されており、洋食店材木店釣具店看板建築など多彩である。小川菊もそのようなバラエティーに富む川越の近代建築のひとつである。
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第1211回・夕陽丘高等学校清香会館

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大阪市天王寺区北山町にある大阪府立夕陽丘高等学校の構内に、昭和初期に建てられたモダンな外観の建物が残されている。昭和8年(1933)に大阪府立夕陽丘高等女学校の同窓会館として建てられた「清香会館」である。設計は大阪を拠点に大正から昭和戦前期に活動していた木子七郎による。

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夕陽丘高等学校は、明治39年(1906)に大阪府立島之内高等女学校として設立された歴史を有する大阪でも屈指の伝統校である。設立後間もない明治41年に現在地に移転、校名も夕陽丘高等女学校に改められた。

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夕陽丘高等女学校の同窓会は「清香会」と称し、戦後の学制改革で共学校となった現在も同じ名称で続いている。

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清香会館は昭和9年(1934)に竣工した2代目校舎とほぼ同時に建てられた。2代目校舎は平成に入り全面改築されたので、清香会館だけが昭和初期の趣を残している。

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現存する木子七郎設計作品の中では積極的にモダンデザインを取り込むようになっていた後年のものであるが、昭和11年(1936)に竣工した京都の関西日仏学館などに比べると様式主義的な造形が見られる。

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清香会館は曲面を多用した壁面に、円形窓の格子飾りなど細部に施されたアールデコの装飾が特徴となっている。

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一部の屋根庇にはスペイン瓦を葺き、木子が得意としたスパニッシュ風の造形も加えられており、2階のベランダ開口部の形状は東京九段の旧山口萬吉邸のベランダとよく似ている。

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木子七郎が設計を引き受けたのは、木子夫人のカツが同校の卒業生である縁によるとされる。カツ夫人は実業家・新田長次郎の長女で、父親が経営する新田皮革製造所の工事を、大林組に勤務していた木子が担当したことが縁で知り合ったという。

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木子七郎は大正2年(1913)にカツと結婚、同年大阪市東区に自邸兼事務所を構えて以降は昭和10年代にかけて大阪を拠点に設計活動を行った。大阪府下でも清香会館とは近い場所にある筆ヶ崎町の大阪赤十字病院や堺筋の稲畑商店本社屋など、多くの優れた建物を手掛けている。

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現在、木子七郎の本拠とした大阪に今も残る設計作品は、清香会館と旧自邸だけである。

第1210回・鍵谷カナ頌功堂

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愛媛県松山市西垣生町にある「鍵谷カナ頌功堂(しょうこうどう)」は、伊予絣の考案者である鍵谷カナの功績を讃えるため、伊予織物同業組合によって昭和4年に建てられた鉄筋コンクリート造の八角堂。設計は愛媛県庁舎萬翠荘石崎汽船本社など、松山に多くの近代建築物を残した木子七郎による。国登録有形文化財。

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鍵谷カナ(1782~1864)は伊予郡垣生村今出(現在の松山市西垣生町)の農家の主婦で、農事の傍ら副業の機織りに従事していたが、新しい絣模様を織る方法を考案、「伊予絣」として人気を博した。明治から大正期にかけて伊予絣は国内の絣生産の約半分を占めたという。

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伊予絣は現在、愛媛県の伝統的特産品に指定されており、西垣生町の長楽寺にある鍵谷カナの墓所は愛媛県の史跡に指定されている。長楽寺の真向かいに建つ頌功堂は、伊予織物同業組合によって昭和4年(1929)に建てられた。

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鉄筋コンクリート造りで、8本の柱が本瓦葺の八角屋根を支え、その下に頌功碑を納める。

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赤みを帯びた御影石の頌功碑には「伊豫絣創始者 鍵谷カナ媼頌功碑」の文字が刻まれている。

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強い反りの屋根や上下の端をすぼませた丸柱など、日本の伝統的な寺院建築のひとつである禅宗様(唐様)を取り入れている。設計者である木子七郎の伝統的な社寺建築についての知識の深さが窺われる。

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代々京都御所の棟梁を務めてきた家に生まれた木子は萬翠荘や石崎汽船本社など早くから鉄筋コンクリート造を取り入れるなど先進的な面を持つ一方で、その出自から伝統建築についての知識も深かった。

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松山出身の実業家、新田長次郎の娘婿となったことから松山との関わりを深めた木子七郎は、鍵谷カナ頌功堂と同じ年に竣工した愛媛県庁舎など、大正から昭和10年代にかけて多くの建物を設計、その様式は和洋、古典様式からモダンスタイルまで非常に多彩なものだった。

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現存しないが、かつては県庁舎の近くには木子の設計になる松山市庁舎と県立図書館もあり、松山市の主要建築の多くを一時は木子作品が占めていた。市庁舎と図書館は県庁舎や萬翠荘などとは全く異なり、無装飾のモダニズムに近い建物であった。

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先進的な鉄筋コンクリート構造と伝統的な社寺建築の様式が両立する鍵谷カナ頌功堂は、小規模ながらも建築家・木子七郎の特色をよく現している建物のひとつと言えるのではないだろうか。

第1209回・旧石崎汽船本社

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愛媛県松山市に本社を置く老舗の海運会社である石崎汽船(株)の旧本社屋が、古くより瀬戸内の港町として栄えた三津浜に建っている。愛媛県庁舎や旧久松伯爵家別邸(萬翠荘)など、松山に多くの近代建築を残した木子七郎の設計で大正13年(1924)に建てられた。国登録有形文化財。

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三津浜は古くより瀬戸内海交通の拠点であり、松山の海の玄関として栄えた地区である。現在は周囲に松山観光港などの新しい港が整備されたことに伴い、静かな港町となっている。

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三津浜の町は古い町家や事務所が点在しており、石崎汽船旧本社もそのひとつである。大正13年(1924)の竣工後、平成25年(2013)に移転するまで、約90年にわたって使用されていた。現在は同社の倉庫となっているようだ。

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石崎汽船(株)は、創業の起源を幕末の廻船問屋にまで遡る老舗の海運会社で、現在も瀬戸内を拠点にフェリーや高速船を運航する旅客船事業者として盛業中である。大正7年(1918)に株式会社となり、その6年後には三津浜に新社屋を建設した。

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久松伯爵邸(萬翠荘)の設計者である木子七郎の設計で、構造は萬翠荘と同じ鉄筋コンクリート造で、当時の地方都市の事務所ビルとしては画期的なものであった。また、意匠はフランスの城館風の萬翠荘とは対照的に、平坦な壁面にセセッション風の装飾を施しただけの極めてモダンなビルであった。

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外壁は萬翠荘でも使われている白色タイルのほか、中央部分には黄褐色のタイルを貼り人造石の付柱を並べる。御影石を貼った正面玄関の上にはブロンズのバルコニーが取り付けられ、外観のアクセントになっている。竣工当時はこのバルコニーから新築祝いの餅撒きが行われたという。

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玄関扉は創建時の木製扉が残されている。また、玄関上部にある社名の銘版は右書きで、竣工当時のものと思われる。

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構造、意匠共に斬新なものであるが、初代社長である石崎兵太郎は、木子七郎の勧めを受け、新様式での社屋建設を決断したという。木子は自ら施工監督に当たって細部にわたって指導を行った。なお、当初の計画では窓枠にはスチールサッシを用い、エレベーターも取り付ける予定であったが、工費の関係で実現していない。

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正面に2本ある銅製の雨樋の上部には、廻船問屋時代からの石崎汽船の印であった「マルイチ」があしらわれている。内部は外観と同様に簡素ながらも格調高い装飾が天井など随所に施され、事務所のカウンターや2階の役員室の暖炉には大理石が用いられている。装飾材料は木子が大阪で特注で調達したという。(内部の様子はこちら

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木子七郎は大正10年(1921)に海外建築視察のため欧米、インド、中国など世界各国を廻る旅を行い、帰朝後は従前得意としていた古典様式建築や和風建築だけではなく、セセッション式の石崎汽船本社、スパニッシュ様式の山口萬吉邸など、多彩な建築様式を使いこなした。

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旧石崎汽船は松山を代表する近代洋風建築のひとつである。新たな用途を得て積極的な活用がなされる日が来ることを願う。

第1208回・道後温泉ふなや

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愛媛県松山市の道後温泉にある旅館・ふなやは、江戸前期創業の歴史を有する老舗である。昭和天皇をはじめ貴賓の利用も多く、大正時代には大理石の暖炉やステンドグラスを多用した豪華な洋館が増築された。当時の建物自体は現存しないが、洋館の主な内装部分が移設、復元されている。

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道後温泉本館から徒歩3分程度の場所にあるふなや。寛永年間創業のふなやは元は「鮒屋」と称し、松山にはゆかりの深い夏目漱石や高浜虚子も宿泊した宿である。建物は鉄筋コンクリートの高層建築に建て替えられているが、茅葺の庭門がある庭園は古い形で残されている。

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ふなやを営む鮒田家は、明治期には道後温泉で旧藩主の久松伯爵家と並ぶ大地主で、現在地に移転すると広壮な木造の本館を築き、のちに貴賓用の洋館も増設された。今も残る古い建物(工作物)は庭門とその脇にある小さな和風建築のみだが、数寄屋風の庭門は老舗にふさわしい風格がある。

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庭門の脇にある小座敷。離れの客室としては小さく、茶室にも見えないので、休憩用の東屋のような施設と思われる。現在は障子をキャンバスに見立てたのか絵が描かれており、ギャラリーとして利用されている。

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旅館の正面玄関は反対側の本館側にあり、日中は庭門は解放されている。庭園は宿泊客でなくとも散策できるようだ。

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本館内には大正10年(1921)頃のふなやの古写真が2枚展示されていた。1枚目は庭園から見た当時の本館で、右奥に増築された洋館が見える。大正11年(1922)に、松山で陸軍の特別大演習が実施される事となり、昭和天皇(当時は摂政宮)を始め多くの貴賓が松山を訪れることになった。

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旧藩主である久松伯爵家は摂政宮を迎えるために迎賓館を兼ねた別邸(萬翠荘)を築いたが、ふなやの洋館は随行するその他の貴顕紳士を迎えるために増築されたものと思われる。その後、昭和天皇は昭和25年(1950)に松山を巡幸された際はふなやに宿泊、洋館を利用された。古写真は当時の洋館内部。

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このような由緒があることからか、本館の改築に際し洋館の内装材は保存され、平成5年(1993)に現在の本館内に復元された。復元された部屋は2室あり、ひとつは1階ロビーの一角に記念室として展示、公開されている。

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暖炉飾りやステンドグラス、彫刻を施した腰壁等、元の部材を用いて復元されている。なお、上の古写真と比較頂ければ分かるが壁の配置は若干変えられており、古写真にも写っている特徴ある大きな半円アーチは反対側に移されている。

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ロビー側から見た記念室。復元時の位置の都合で壁の配置を変えたようであるが、部屋の規模は改築前のままと思われる。

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暖炉は大正期の洋館らしいモダンなデザインが特徴で、同時期に建てられ、現在は国指定重要文化財である萬翠荘にも劣らないと思われる質の高い洋風意匠が施されている。大理石も同時期の洋館ではあまり見かけない珍しい色合いのもので、特別に取り寄せたのではないだろうか。

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洋館の設計者は不詳のようであるが、2つの部屋を飾る多数のステンドグラスは、当時大阪にあったステンドグラス工房である大阪玲光社の製作による。大阪玲光社は大阪の中之島公会堂など、多くの近代建築のステンドグラス製作を手掛けた木内眞太郎が主宰する工房で、萬翠荘のステンドグラスも木内眞太郎が製作を行っている。

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萬翠荘の設計者は松山とは縁の深い建築家で、弊ブログでも度々取り上げてきた木子七郎であるが、意匠の質の高さやステンドグラス製作を巡る共通点から、私見であるが、ふなやの洋館増築にも木子が設計に関与している可能性は高いのではないかと思われる。

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天井の照明台座の漆喰装飾も移設、復元されている。
アールデコ風の照明器具も当時から残るオリジナルかも知れない。

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もうひとつの洋館から移設、復元した部屋は本館7階にあり、クラブラウンジとして食事用の個室などに利用されている。ふなやに宿泊した際、他の宿泊客の利用が無いときは自由に出入りできたので見学させて頂いた。

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1階展示室と同様にステンドグラスが多数用いられ、旧ベランダに面した開口部、暖炉まわりなどに曲線を多用したアールヌーボー風の洋室である。椅子も当時からのものと思われる。

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この部屋も元の部材で細部までよく復元されているようだが、天井はもっと高かったのではないかと思われる。

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1階展示室と異なってこの部屋は開口部の大半が壁で塞がれており、ステンドグラスは人工照明で光を通すようになっていた。

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大胆な造形の半円アーチが目を引く暖炉。辰野金吾が旧松本健次郎邸旧日本生命九州支店でこのような曲線を用いたデザインの暖炉を残しているが、他の建築家では珍しい。

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天井の照明台座の漆喰装飾。

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暖炉上部の鏡の縁取りにもアールヌーボー風の装飾が見られる。

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2つの部屋には美しいステンドグラスが多数残されている。
1階展示室前の廊下には、当地の特産品である柑橘類と思われる意匠のステンドグラスを用いた照明器具も移設されている。

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7階クラブラウンジ入口の欄間。

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クラブラウンジ暖炉脇に嵌め込まれた一対のステンドグラス。

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ふなやのステンドグラスについての記載は、戦前のステンドグラスについての研究家として知られる田辺千代氏の著作「日本のステンドグラス 明治・大正・昭和の名品」を参考にさせて頂いた。

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同書によると、萬翠荘、ふなや共に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)出身で、多くの近代建築のステンドグラスをデザインした三崎彌三郎が図案を作成、先述のとおり大阪玲光社が製作を行ったという。

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1階記念室の周辺には、復元された2室以外の洋館の部材を再利用した思われる小窓やステンドグラスがあった。

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内装だけの移設復元であるが、質の高い意匠が施された暖炉などの装飾、美しいステンドグラスはいずれも貴重な文化財である。個人的な推測であるが、萬翠荘や愛媛県庁舎などの優れた近代建築を松山に多く残している木子七郎の設計であったとすれば、その価値は尚更と思われる。

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このような部分的に保存されているものは将来、建物の改築、改装によっていつの間にか失われる場合も考えられる。外壁や内装など部分保存されているものも、文化財として公的に調査、記録しておく必要はないだろうかと思う。

第1207回・薫楽荘

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薫楽荘(くんらくそう)は、三重県伊賀市上野桑町にある旅館。建物は明治期に遊郭の茶屋として建てられた木造二階建で、土蔵と共に国の登録有形文化財。伊賀市の中心街にあり、伊賀上野城など観光地にも近いので、ビジネスにも観光にも利用できる。

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上野桑町周辺はかつて遊郭があり、薫楽荘の向かいにあるいとう旅館もかつての茶屋であったという。現在は旅館としての営業はされていないが、こちらも建物が国の登録有形文化財になっている。

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旧いとう旅館の一階には凝った意匠の格子が嵌め込まれている。

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街路まで張り出した重厚な土蔵が目を引く薫楽荘。
正面の全面に高塀を巡らせ、その一角に入口が穿たれている。

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門のそばには、戦時中に置かれたと思われるコンクリート製の防火用水槽が今も残されている。

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戦時中の防火用水槽は、弊ブログでも以前紹介した横浜の旧柳下家住宅や青梅の吉川英治旧宅にもあった。このような水槽もそれぞれ意匠が異なっており興味深い。

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門の両脇には飾り窓が設けられ、輪切りにして中をくりぬいた自然木を窓枠にしている。さりげなく施されている洒落た装飾は、この建物が元々は茶屋として建てられたことを窺わせる。

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高塀の屋根瓦も凝っている。

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繊細な格子戸を開けて門をくぐると、すぐ先に玄関がある。

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門から玄関までの通路には古風な装飾タイルが埋め込まれている。

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玄関の三和土にも。これも茶屋であった頃の名残だろうか。

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土蔵と主屋の間には小さな坪庭が設けられている。

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二階には談話室状の空間が設けられているが、四阿風の天井が目を引く。

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客室へ向かう廊下を兼ねた二階の縁側。手摺や欄干は手斧仕上げが施されている。

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宿泊した二階の客室。
部屋毎に床の間などは異なる造りになっているようだ。

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次の間にも床の間が設けられ、天井や壁の円形窓など随所に凝った造作が見られる。

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客室と縁側の廊下を仕切る硝子戸は、門の格子戸と似た繊細な意匠。

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客室の円形窓。

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二階廊下の小壁には様々な意匠が施されている。

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薫楽荘は素泊まりでの利用も可能であるが、食事付の場合は立派な床柱や、銘木を用いた障子が目を引く一階座敷が食事処になっている。

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戦災を免れた伊賀上野は古い町並みがよく残されており、以前取り上げた一乃湯旧栄楽亭俳聖殿旧上野警察署などの歴史ある和風、洋風の建物が残されている。いずれも薫楽荘からは歩いて行ける距離にある。

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親切で愛想のよい女将さんが持て成してくれる、居心地のよい宿である。

第1206回・旧柏原尋常中学校本館(柏原高等学校柏陵記念館)

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兵庫県丹波市柏原町には、前回紹介した旧氷上高等小学校のほかにも美しい明治の洋風校舎が残されている。兵庫県立柏原高等学校内にある「柏陵記念館」は、明治30年に建てられた旧柏原尋常中学校本館の一部を移築したもので、現在は同校の記念館として保存・活用されている。国登録有形文化財。

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柏原尋常中学校は明治30年(1897)に設立された旧制中学校で、第二次大戦後の学制改革によって柏原高等女学校(前回の旧氷上高等小学校を校舎の一部として使っていた)と合併、男女共学の兵庫県立柏原高等学校となり、今日に至っている。

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元首相の芦田均など著名人も学んだ校舎は、昭和16年(1941)の改築に際し一部が移築、保存され、昭和35年(1960)に現在地に再移築された。

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現在、柏陵記念館として保存されている建物は明治30年竣工とされているので、創立当初の校舎の一部と思われる。創建時の全体像は分からないが、正面玄関等の主要な部分を移築したものと思われる。

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端正な玄関ポーチには柱頭や玄関まわりの彫刻など、擬洋風建築ならではの装飾が施され、天井の意匠も凝っている。欄間の両脇には彩色を施した竹と鳩の彫刻が飾られている。

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背面は吹き放ちのベランダになっている。同時期の木造洋館である旧日本赤十字社埼玉支部(明治38年)のように、移築前はおそらく中庭か裏庭に面した廊下(通路)だったのではないかと思われる。

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ベランダの柱頭部分にも彫刻装飾が施されている。

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二つの柱を繋いだような手摺の意匠も珍しい。

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昭和55年(1980)より同校の記念館となっており、現在は歴史資料等の保管に使用しているほか、館内にある応接室をスクールカウンセリングに使用しているという。

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平成28年(2016)には国の登録有形文化財となった。翌年には創立120周年記念事業として改修工事が行われ、外壁の補修や塗り直しが行われている。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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