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第1224回・旧大阪商船門司支店(北九州市旧大阪商船)

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北九州市門司区にある北九州市旧大阪商船は、戦前の日本を代表する船会社のひとつであった大阪商船(株)の門司支店として大正6年(1917)に建てられた。オレンジ色の煉瓦タイルにセセッション風意匠の塔屋が特徴的な門司を代表する大正期の洋風建築である。現在は北九州市が所有しており、国の登録有形文化財となっている。

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門司港レトロ地区の中心街にある北九州市大阪商船。隣接して旧門司三井倶楽部が山手より移築されており、JR門司港駅も歩いてすぐの位置にある。現在はギャラリーやカフェが設けられており、門司港でも指折りの観光名所となっている。

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木造二階建で部分的に煉瓦とコンクリートも用いた混構造の建物で、オレンジ色の化粧タイルと幾何学的な細部装飾が特徴であるセセッション風意匠の塔屋が目を引く。建てられた当時は海岸に面しており、尖塔部分は燈台の役割も果たしていたという。

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正面全景。角の塔屋の下に正面玄関が設けられている。かつては1階が待合室と税関派出所、2階が大阪商船(株)の事務所として使われており、待合室からは専用の桟橋を経て直接乗船できるようになっていた。

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大阪商船(現・商船三井(株))は明治17年(1884)に大阪で設立された船会社で、同時期に設立された東京の日本郵船と共に戦前の日本を代表する船会社であった。

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戦後は三井船舶と合併して大阪商船三井船舶→商船三井となり、現在も日本郵船、川崎汽船と共に日本の三大船会社と称されている。旧門司支店の建物は平成3年(1991)まで商船三井の事務所として使われていた。

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旧大阪商船の本支店で現存する建物は旧門司支店のほか、大正11年(1922)に神戸支店として建てられた神戸・海岸通の商船三井ビル、大阪港の施設として昭和8年(1933)に大阪・天保山に建てられた商船三井築港ビルがある。

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建物自体は近年の改築であるが、大阪・中之島のダイビル本館には、低層部に大阪商船本社が入っていた旧大阪ビルディング(大正14年竣工)の外観とエレベーターホールが旧ビルの部材を用いて復元されている。また、東京支店があった東京・内幸町の旧大阪ビルディング東京分館1・2号館跡には、旧ビルを飾っていた豚の頭部や鬼面などの奇怪な装飾が残されている。

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旧門司支店の設計者である河合幾次(1864~1942)は、東京帝大卒業後、逓信省を経て大阪で設計事務所を開業、後年は事業家として活動した人物であるが、詳しい経歴は不明な点が多い。

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大阪商船門司支店のほか、神戸市にある旧村山龍平邸の洋館(国指定重要文化財)が現存する設計作品として確認されている。なお、文化庁による旧村山邸重文指定時の解説によると、同じく重要文化財である岐阜県の旧八百津発電所(明治44年)の設計も手掛けたとされる。

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外壁を覆うオレンジ色の煉瓦タイル。当時の建物には潮風に強いとして外装にタイル(テラコッタ)を用いた例もあるので、海岸べりに立地することから外装材に採用されたのかも知れない。

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くびれのある通用口のアーチは、河合幾次と同級である伊東忠太が設計した西本願寺伝道院(明治45年・国指定重要文化財)の通用門と似ている。

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正面玄関。脇には登録有形文化財のプレートが嵌め込まれている。写真には写っていないが、商船三井時代の看板も北九州市の所有となった現在もそのまま残されている。

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玄関ホールは階段室を兼ねている。

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賑やかな外観とは対照的に館内は簡素で、階段の親柱や手摺もごくシンプルなものとなっている。

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船客の待合室があった1階と街路との間にはアーケード状の空間が設けられている。

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館内には戦前の大阪商船(左)と日本郵船のポスターが飾られていた。大阪商船の主力航路であった南米航路には戦前、村野藤吾や中村順平などの著名建築家が室内意匠を手掛けた「ぶら志゛る丸」「あるぜんちな丸」などの豪華船が就航していたが、大東亜戦争により悉く海の藻屑と消えた。

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随所に残る木製の古びたベンチは、大阪商船~商船三井時代から使っていたものかも知れない。

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旧大阪商船門司支店はJR門司港駅旧門司三井倶楽部などと共に、門司港レトロ地区を代表する歴史的建造物として観光客を集めている。なお、本文で触れた大阪商船の本支店の建物については、いずれも弊ブログにて以前取り上げているので、併せて御覧頂けると幸いである。
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第1223回・旧逓信省下関電信局電話課局舎

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山口県下関市田中町にある旧逓信省下関電信局電話課庁舎は、逓信省営繕課の設計で大正13年(1924)に竣工した。放物線アーチを描く塔屋など、当時としては斬新な意匠を備えた「逓信建築」のひとつである。現在は地元出身の映画女優・田中絹代の記念館「下関市立近代先人顕彰館」として活用されている。下関市指定有形文化財。

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南部町郵便局や旧英国領事館、旧秋田商会ビルなど、下関でも近代洋風建築が多く残る唐戸地区の近くにある旧下関電信局電話課局舎。逓信省営繕課の設計で大正11年(1922)に着工、2年後の大正13年に竣工した。

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逓信省(現・総務省)営繕課は、同省の所轄であった郵便局や電話局、電信局の庁舎を手掛けていた部署で、大正から昭和戦前にかけて従前の建築の主流であった古典様式とは異なる、近代建築(モダニズム建築)のはしりとも言える先端的な意匠の庁舎を数多く建てていた。

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これらの建物は「逓信建築」と称されており、逓信省営繕課に在籍した著名な建築家としては東京・大阪の両中央郵便局などを手掛けた吉田鉄郎(1894~1956)や、東京・大阪の両中央電信局など主に電話局や電信局舎の設計を担当していた山田守(1894~1966)がいる。

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外観を特徴づけている塔屋の放物線アーチは、日本初の近代建築(モダニズム建築)運動とされる分離派建築会の建築家が盛んに取り入れた意匠で、参画していた山田守も東京・大阪の両中央電信局舎(現存しない)で同様の意匠を用いている。現在、このような意匠の逓信建築で残っているのは旧下関電信局だけとされる。

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誰が旧下関電信局の設計を担当したかは不明で、山田守が設計に関与したかどうかは分からないが、当時の逓信省営繕課が分離派の建築思想の影響を強く受けていたことが窺われる。なお、この塔屋は機能上は防火用水槽を収納するためのものである。

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建物廻りの縁石にも塔屋と同じような放物線意匠が見られる。

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半円アーチの窓が連なる3階部分には電話交換手の休憩室が設けられていた。電話交換手は当時の女性の花形的職業のひとつであり、昭和2年に増築された別館(現存しない)には、裁縫などを習う訓育室や蓄音機の置かれた畳敷きの休憩室など、女性のための施設も備えていた。

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建物の三方に巡らされた太い円柱は古典様式的だが、柱身部分だけで柱頭や土台を持っていない。当時としては大胆かつ斬新な表現であったと思われる。

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昭和41年(1966)に電話局が移転した後は下関市が取得、市庁舎の別館として使用されるが、平成3年(1991)以降は空家となり、一時は解体が予定されていたが、保存運動を受け平成14年(2002)に本館部分が市の文化財に指定され保存されることになった。写真は改修前の平成18年(2006)に訪れたときのもの。

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現在は下関出身で昭和期の女優、映画監督である田中絹代(1909~1977)の記念館「下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)」として公開されている。なお、館内にも換気口や柱頭などに大正期らしい細部意匠が現在も残されているようである。

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旧下関電信局のほかに現存する大正期の逓信建築としては、吉田鉄郎の初期作品である三重県伊勢市の旧山田郵便局電話分室と京都市の旧京都中央電話局上分局(共に大正12年竣工)がある。

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時代が下がるに従って、逓信建築は東京中央郵便局などに代表されるような無装飾のモダニズム建築へと移行するが、大正期の逓信建築は屋根など随所に目を引く大胆な造形が施されているのが特徴である。

第1222回・JR門司港駅(旧門司駅)

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北九州市門司区にあるJR門司港駅(旧門司駅)は、大正3年(1914)に建てられた洋風建築の駅舎で、かつては九州の鉄道の起点駅であり、関門連絡船との連絡中継駅としての機能も有する九州の玄関口であった。昭和63年(1988)に鉄道駅舎としては初めて国の重要文化財に指定され、平成31年(2019)には修復工事が終わり創建当初の姿に復元されている。

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門司駅は明治24年(1891)の開業で、現在の駅舎は二代目として新築移転したものである。駅名にふさわしい「門」の字を思わせる駅舎は木造二階建で、外壁には色モルタルを塗って石造風に仕上げられている。

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弊ブログの過去記事でも紹介した、平成18年(2006)に訪れた時の写真。正面の庇は昭和4年(1929)に増設されたものだが、今回の修復工事では一部を残して撤去されている。

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駅舎内には駅舎の変遷を語る古写真がいくつか展示されているが、上の写真はそのひとつで、大正3年の創建から間もない頃のもので、正面上部の時計はまだ存在しない。

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修復に際しては大正7年(1918)に設置された正面の時計は残され、文字盤は設置当初の形に復元されている。

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旧門司駅舎は明治42年(1909)に煉瓦造で竣工した旧博多駅舎を模したともされる。九州の玄関口であり博多と並ぶ重要な駅であった門司駅が木造で建てられたのは、当時既に関門トンネルの建設構想が進んでいたことから、一時的な仮駅舎として建てられたとも言われる。

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一時的な仮駅舎として建てられたという旧門司駅は国の重要文化財として保存され、現在では門司港を代表する建物となっているが、本格的な駅舎として建てられた旧博多駅舎は、昭和30年代に改築のため取り壊され今はない。

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昭和17年(1942)に関門トンネルが開通すると、関門トンネルの接続駅となる大里駅が門司駅に改称された。本州と九州を結ぶ鉄道路線からは外れることになった旧門司駅は名称を「門司港(もじこう)駅」に改め、九州の玄関口としての役割を終えた。

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戦後、門司港周辺は高度成長から取り残されていたが、昭和の末に門司港レトロ地区として整備され、観光地として甦った。数多く残る近代の建造物の中でも門司港駅舎はすぐ近くに移築された旧門司三井倶楽部と共に、同地区のシンボル的な存在となった。

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平成24年(2012)より耐震補強を兼ねた大規模な修復工事が行われ、7年後の平成31年(2019)に竣工、創建当初の姿に復元された。

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2階にあった食堂及び旧貴賓室への専用階段。

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同じ年に竣工した洋風建築の駅舎で、同じく国指定重要文化財の東京駅丸の内駅舎は創建当初の内装は戦災で失われ、ドーム天井など一部が新しい材料で復元されたが、旧門司駅舎の内装は大部分が創建当初からのオリジナルである。

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みどりの窓口及び観光案内所として整備された旧一等・二等客用の待合室。

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暖炉脇の窓は実際は壁の一部で、内側を黒漆喰で仕上げた飾り窓である。後年の改装で覆い隠されていた部分や失われていた部分も今回の修復によって再び姿を現し、または復元がなされた。

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改札口前のコンコース。左側が切符売り場でその手前に旧一等・二等待合室がある。その反対側に当たる写真右側がかつての三等待合室と小荷物取扱室である。

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復元されたコンコースのシャンデリア。

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修復前より部分的に残っていた切符売場も復元されている。

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ホームから駅舎を望む。このあたりは修復前と殆ど変っていない。

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ホームの一角には、関門連絡船の連絡通路跡が残る。

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門司港駅は駅舎だけでなく手洗所や水飲み場などの付属施設もよく残されており、ホームも古い佇まいをよく残している。

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国の重要文化財に指定されている駅舎は先述の東京駅のほか、現役を退いたものでは島根県出雲市の旧大社駅がある。

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また、門司港駅と同時期に建てられ、現在も美しい佇まいの洋風建築が残る駅としては、栃木県のJR日光駅や大阪府堺市の南海電鉄浜寺公園駅(共に国登録有形文化財)などがある。

第1221回・上野ビル(旧三菱合資會社若松支店)

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北九州市若松区(旧若松市)の若松港にある上野ビルは、大正2年に三菱合資會社若松支店として建てられた事務所ビル。設計は三菱合資會社技師長として丸の内のオフィス街建設に従事し、その後は住宅建築を多く手掛けた保岡勝也による。テナントビルとして使われている現在も、外観・内装共に大正初期の事務所ビルの姿を非常によく残している。国登録有形文化財。

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若松は明治以降、筑豊炭田で産出された石炭を輸送するための中継基地として栄え、積み出し港であった若松港には炭鉱主や海運業者、商社の事務所が軒を連ねていた。現在も上野ビルなどいくつかの建物が残されており、往年の繁栄を伝えている。

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大正2年(1913)、三菱合資會社の若松支店として技師長の保岡勝也が設計、清水組の施工で建てられた。昭和40年代に現在の所有者である上野海運(株)が購入、今日まで同社の事務所兼テナントビルとして使われている。

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敷地内には煉瓦造三階建の本館と、同じく煉瓦造の二階建で現在も三菱のマークが残る倉庫、商品である石炭の検査を行うための分析室として建てられた木造平屋建の付属棟などが配され、これらの建物を煉瓦塀が取り囲んでいる。

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平成25年(2013)には本館と倉庫、付属棟のうち旧分析室、門柱及び塀が国の登録有形文化財に認定されている。写真の建物は木造の附属棟のひとつで、登録文化財の旧分析室とは別の建物である。

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背面からの眺め。
正面玄関に一部増築が施され、屋上に巡らされていた手摺部分はコンクリートで覆われているが、これらの部分的な改造を除けば概ね創建当初の姿をよく残している。

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建材の煉瓦はドイツからの輸入品とも伝えられているが、外壁に用いられている灰色の煉瓦は、製鉄時に生じる不純物(高炉スラグ、鉱滓)から作った「鉱滓煉瓦」と称されるもので、倉庫や塀にも同様の煉瓦が使われている。

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鉱滓煉瓦は明治34年(1901)に操業を開始した八幡製鐵所において多量に発生する高炉スラグを有効利用するために開発されたもので、現在でも北九州市には鉱滓煉瓦を用いた建造物や塀、門柱などの工作物が残されており、上野ビルの煉瓦も国産品の可能性が考えられる。

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正面玄関は上野海運の事務所専用であるため、側面玄関がテナント用玄関となっている。

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共用部分については見学は自由であり、商業目的及び集団での撮影を除けば写真撮影も自由とされているようだ。

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館内は大正2年創建当初の姿をほぼそのまま残しているものと思われる。

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セセッション風の簡素な意匠が施された、木製の階段手摺と親柱。

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時が停まったような佇まいを見せる館内。

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階段室壁面の梁に施された装飾。

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館内の共用部分で圧巻なのは2階から3階で、2層にわたる吹き抜けの周囲には鋳鉄を多用した回廊が巡り、廊下の天井には装飾を打ち出した鉄板が張られている。

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3階を見上げるとステンドグラスを嵌め込んだ天窓から外光が注ぎ込む。

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手摺は一部木製で、透かし彫りの装飾が施されている。

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シンプルな意匠のステンドグラスは竣工当初からのもの。

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3階から吹き抜けを見下ろす。吹き抜け部分の床は1階の天窓となっており、1階にも外光が注ぎ込むようになっている。

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保岡勝也(1877~1942)は、明治45年に三菱を退社して独立した後に手掛けた埼玉県川越市の旧八十五銀行本店旧山崎家別邸などの設計で知られるが、三菱時代の建物で現存するものは少ない。

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石炭の流通拠点であった若松にふさわしく、大半の部屋には石炭を燃料とする暖炉がある。(上野ビルの公式ホームページでは各室の内装を見ることができる)

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充実した内部空間が残る戦前の事務所ビルとして、上野ビルは全国でも指折りの存在ではないだろうか。

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歳月を経た建物ならではの味わいを堪能できる上野ビル。可能な限りこの状態で長く使われることを願って止まない。

第1220回・旧伊藤博文邸

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明治の元勲の一人で、初代内閣総理大臣を務めた公爵・伊藤博文(1841~1909)が生家跡に建てた洋館が山口県光市に残されている。明治43年(1910)に竣工した洋館は、伊藤博文自ら基本設計を行ったとされるが完成した姿を見ることは無かった。現在は伊藤公記念公園の施設として公開されており、山口県の有形文化財に指定されている。

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伊藤博文(出生名は林 利助)は、天保12年(1841)に熊毛郡束荷村(現・光市大字束荷)に生まれた。現在、伊藤公記念公園として整備されている場所は生家である林家の跡である。

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伊藤博文の遠祖に当たる林淡路守通起の没後三百年法要を前に、生家跡には一族が故郷に集まる場所が無いことから建てられたのが現在残る洋館である。伊藤博文は自ら基本設計を行い、法要の後は地元の公共施設に転用する予定であったという。

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清水組(現・清水建設)の施工で明治42年(1909)3月に着工、10月23日には上棟式が行われるが、その3日後の10月26日に伊藤博文は満洲のハルピンで暗殺され、この洋館を見ることは一度も無かった。

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洋館は明治43年(1910)年に竣工、法要は養子の伊藤博邦によって執り行われた。法要の後は神奈川県大磯の本邸「滄浪閣」から遺愛の家具等が移され、伊藤公記念館として保存されてきた。

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平成16年(2004)には大規模な修復工事が行われ、後年の改装で当初の姿が失われていた正面玄関の車寄せが復元された。

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現在は伊藤博文の業績を紹介する「伊藤公記念公園」の施設「旧伊藤博文邸」として、後年に復元された生家と、隣接して新築された伊藤公資料館と共に公開されている。

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旧伊藤博文邸は和洋折衷の内装を持つ小規模な洋館で、1階は階段室を兼ねた玄関ホールの両脇に洋室2室、背面側には便所等が配されている。

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滄浪閣にあった伊藤博文愛用の家具等はかつてこの館で保存、展示されていた。寝台や洗面台、当時としては珍しいガラステーブル、回転式書棚や安楽椅子など、明治期の洋家具として興味深いものである。

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これらの家具類は現在、隣接する伊藤公資料館に移されており、旧伊藤博文邸には椅子などごく一部の家具だけが残されている。その他に棟札の複製等、建物に関する展示もある。

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玄関ホールの主階段。
奥に見えるのは主階段とは別に設けられた、使用人が使うサービス用階段である。

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親柱には藤の花の装飾が施されている。「伊藤」に因む装飾であろう。

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洋館の背面側に設けられたサービス用階段。

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背面側からみた洋館。元々は洋館の背面に続く形で、厨房や配膳室等のバックヤードの機能を備えた附属棟があったものと思われる。

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2階は次の間付きの座敷を含めて和室が3室、洋室1室を備える。和室が主であるためか、ホールも白壁に柱を見せた和風の造りになっている。

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2階ホールから望む束荷の風景。

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廻り縁側と次の間を備え、書院欄間には菊と桐を透かし彫り装飾を施した本格的な書院造の座敷。

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座敷の縁側。
突き当りには洗面所と便所が設けられている。

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床の間と床脇。
地袋の襖が3枚になっているなど少々歪な印象を受けるが、元勲の館にふさわしい格式を感じさせる座敷となっている。

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菊と桐を透かし彫りにした書院の欄間。
おそらくこの座敷が法要の会場として使われたものと思われる。

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背面に設けられた控室と思われる小部屋。扉の先は先述のサービス用階段に続いている。畳敷きの和室であるが、天井は漆喰塗り仕上げで、窓と扉は洋風に造られている。

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ホールを挟んで座敷の反対側に設けられた洋室はこの洋館の中で最も広い部屋で、座敷と並んで格調高い造りの洋室となっている。おそらく階下は控室で、階上が座敷と共に主室として使われたものと思われる。

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部屋の片隅には緩やかなアーチで区切られたアルコーブ(小空間)が設けられている。白い漆喰で縁取られたアーチと壁布の色調の取り合わせがすばらしい。

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この部屋は創建当初の壁布が断片的に残されていたため、平成16年の修復に際し創建当初の内装が復元された。

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玄関ホールの漆喰装飾を始め、細部の随所に見どころがある。

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外観基壇の換気口と、2階洋室の換気口。

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各洋室にはそれぞれ、金属板に装飾を型押しした円形の換気口が設けられている。

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地元では郷里の偉人ゆかりの建物として今日まで大切に扱われ、平成5年(1993)には山口県の文化財に指定された。

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簡素ながらも外観、内装共に端正な造りの明治の洋館であり、基本設計を手掛けるという形で伊藤博文の意思が示されている建物としても興味深い邸宅である。

第1219回・旧周防銀行本店(柳井市町並み資料館)

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山口県柳井市柳井津字金屋町にある旧周防銀行本店は、明治末期に建てられた県内に現存する銀行建築としては最古とされる木造2階建の洋風建築で、日本銀行技師の長野宇平治が原設計を手掛けた。現在は「柳井市町並み資料館」として観光案内所等に活用されている。国登録有形文化財。

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柳井津は古くより商業が発展していた港町で、室町時代には大内氏の下で繁栄した歴史もあり、現在でも室町時代以来引き継がれているとされる区画に、近世から近代にかけて築かれた白壁に土蔵造りの商家が連なる町並みが残されており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

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柳井津の中心部に当たる金屋町に建つ旧周防銀行本店。JR柳井駅前から伸びる駅通りに面して建っており、近年道路拡幅のため曳家による保存工事が行われたため、創建時の位置からは少し後方に移設されている。保存地区への入口に当たる位置にあり、観光案内所としては恰好の場所にある。

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近代以降も柳井津は住友銀行などの財閥系銀行の支店が置かれ繁栄していた。周防銀行は明治31年(1898)に地元有力者の共同出資により設立され、明治末期には山口県下最大の銀行となり、朝鮮の釜山にまで支店を構えていたが、大正に入ると経営は傾く。

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大正6年(1917)に周防銀行は倒産、同行の倒産は柳井の経済に打撃を与え、その後の経済活動衰退の一因になったとも言われる。建物はその後下関に本店を置く山口銀行の前身である百十銀行の所有となり、昭和中期まで山口銀行の支店として使われていた。

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周防銀行の全盛期であった明治40年(1907)に竣工した本店は、当時日銀の技師長として各地の店舗設計を手掛けていた長野宇平治が原案を作成、実施設計は長野が独立後には設計事務所の所員であった佐藤節雄が担当した。写真は館内に展示されていた創建当初の姿を写した古写真で、現在の姿とはかなり異なるのが分かる。

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百十銀行~山口銀行時代に正面右側に1スパン分増築が行われた。その際に正面玄関の位置を移すなど1階を中心に大きく改装が施され、現在見られる姿になったようである。なお、増築部分はその後の曳家保存工事に際して撤去されたが、意匠は改装された時の姿で残されている。

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増築及び改装が施された正確な時期は分からないが、全体的に装飾が簡略化された他、弓型に曲線を描く1階玄関及び両側の窓上部のアーチなど大正風の造形が施されており、少なくとも戦前期の改装と思われる。

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2階中央に配されたバルコニーは、創建当初の意匠が現在もそのまま残されている。
なお、下関市にある山口銀行の旧本店は長野宇平治の設計で大正9年に竣工した旧三井銀行下関支店の建物で、現在は「やまぎん史料館」として保存、活用されており、県の有形文化財にも指定されている。

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屋根のパラペット(手摺)の両端には、創建当初より存在した球形の飾りが近年まであったが現在は失われている。何かの折に損傷し撤去されたとのことで、未だ復旧されていないのは甚だ残念である。

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柳井市町並み資料館で頂いたパンフレットの写真。
微細な装飾のひとつではあるが、有るのと無いのでは印象が大きく変わるとは思われないだろうか。

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山口銀行の店舗としての役目を終えた後、昭和50年(1975)より柳井市が建物を借り受け、図書館や観光案内所として使用していたが、平成10年(1998)に駅通りの道路拡幅工事に伴い、山口銀行より建物を譲り受け曳家によって移設、補強工事が行われた。このとき同時に増築部分が撤去され、タイル貼外壁をモルタル塗にするなどの復元改修も行われた。

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1階の旧営業室。大ぶりの格子と板張りを組み合わせた天井の意匠は、長野宇平治が辰野金吾の下で設計を行った日銀京都支店小樽支店の営業室を簡素化したような印象を受ける。おそらく天井は明治期のまま残されていると思われる。

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換気口も兼ねたと思われ、装飾が透かし彫りで施された照明台座。

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旧営業室の奥には金庫が残されている。
現在、1階は柳井市の町並み資料館として柳井津の模型などが展示され、観光案内所も兼ねている。

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営業室の奥には階段室が配されており、この階段も創建当時の姿を残しているものと思われる。

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2階には大小2室が配されている。
階段室に近い小部屋は頭取室など特別な部屋として造られたものと思われ、他の部屋とは少し異なる造りとなっている。

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小部屋の天井は営業室など他の部屋とは異なる意匠となっており、カーテンボックスには装飾彫刻が施されている。

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大部屋は天井など営業室と同じ意匠となっている。この部屋は現在、柳井出身で昭和初期から流行歌手として人気を博した松島詩子(1905~1996)の記念館として公開されている。

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柳井では周防銀行以外にも、先述の住友銀行を始めとする金融機関が明治から大正にかけて洋風建築の店舗を建てたが、今も健在なのは旧周防銀行本店のみである。近代の柳井津の繁栄を伝える建物として、また、明治から昭和初期にかけて多くの優れた銀行建築を手掛けた長野宇平治が設計に関与した建物としても貴重な文化遺産である。

奉祝

奉祝 令和元年

新しい時代がよい時代となりますことをお祈り申し上げます。

令和元年五月一日

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昭和天皇・皇后両陛下が宿泊されたこともある夕張鹿鳴館の梅のステンドグラス。
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