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第1238回・旧近衛文麿別荘(市村記念館)〔再訪〕

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明治より欧米人の避暑地として発展した軽井沢では、大正に入ると上流階級を中心に日本人の別荘も増加した。それらの別荘建築に多かったのが、住宅建築を専門とする「あめりか屋」の設計施工による和洋折衷の西洋館であった。旧近衛文麿別荘(市村記念館)は現存する軽井沢の「あめりか屋」別荘の中で唯一、文化財として公開されており、見学が可能である。

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市村記念館は中軽井沢駅に近い軽井沢町歴史民俗資料館の施設の一部として公開されている。この建物は弊ブログ第169回記事で紹介済みであるが、平成28年(2016)に軽井沢町の文化財に指定され、耐震補強及び補修工事が行われた。本記事は文化財指定後の再訪記事である。

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それまでの軽井沢の別荘建築の多くが民家を改装したものであったり、旧堀辰雄山荘のような素朴な造りのバンガローやコテージ風であったのに対し、「あめりか屋」の別荘は、華やかなアメリカンヴィクトリアン様式を取り入れた明るい色調の外観に、内部は階下を洋室、階上を日本座敷とする点が特徴であった。

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大正7年(1918)頃に軽井沢の別荘地開発を行っていた野澤組によって建てられた市村記念館は、大正期の「あめりか屋」別荘の特色をよく残しており、唯一見学が可能な建物である。なお、軽井沢の「あめりか屋」別荘で現存するものでは、田中角榮別荘として知られる旧徳川圀順別荘や隣接する旧徳川慶久別荘などがあるが、いずれも非公開である。

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大正15年(1926)から近衛文麿の別荘として使われていたが、昭和7年(1932)に親交のあった政治学者の市村今朝蔵が近衛文麿から購入し移築した。現在の姿は市村家の別荘として移築改装された昭和8年当時のもので、耐震補強に伴う補修工事では窓枠が当時の色である焦茶色に復元されている。

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前回訪問時は館内の撮影は禁止であったが、階下の一室のみ撮影可能になっていた。玄関を入って左手にある暖炉を備えた洋室で、居間兼食堂として使われていた部屋と思われる。

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暖炉は床に炉を切って囲炉裏風に造られている。この部屋の真上に位置する日本座敷にも暖炉があるが、長火鉢が据え付けられており、いずれも珍しい形式の暖炉である。

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椅子と卓子、戸棚や蓄音機など、戦前のものと思われる家具調度類もよく残されている。

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隣接する玄関ホールとの間の仕切りは、同じ「あめりか屋」の設計施工による名古屋の旧川上貞奴邸の大広間にもよく似たものがある。貞奴邸の洋室部分は移築時には既に現存していなかったため、復元に際し市村記念館の室内意匠が参考にされたものと思われる。

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暖炉に用いられている型押しタイルは昭和初期以降の建物でよく見られるタイプのものである。大正7年の創建当時は通常の形式の暖炉であったと思われるが、昭和8年の移築に際し現在の形に改造されたものと思われる。「あめりか屋」別荘の多くには煉瓦積の煙突が設けられているが、市村記念館には煙突はない。

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戦前の軽井沢の別荘建築で内部まで見学できるものは市村記念館の他、旧堀辰雄山荘旧朝吹山荘(睡鳩荘)旧原田家別荘(三五荘)などがある。

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現存する軽井沢の「あめりか屋」別荘の中でも立地、造り共に最上級と思われるのは先述の旧徳川圀順別荘であるが、現在は「田中角栄記念館軽井沢分室」となっているものの現状は完全非公開のようである。施設の性格からも非常に公開が望まれるものである。
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第1237回・旧堀辰雄山荘

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前回紹介した軽井沢高原文庫には、軽井沢の風光を愛し、多くの作品の舞台としていた作家・堀辰雄(1904~1953)が、昭和16年から4度の夏を過ごした山荘が移築されている。大正7~8年(1918~19)以前に外国人の別荘として建てられたとされる素朴なバンガロー風の山荘である。

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軽井沢高原文庫の本館裏手に広がる木立ちの間に移築されている堀辰雄山荘。

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外壁には全面に杉皮を貼り、現在は金属板葺きに改変されているが、屋根は薄い板葺きで、その上には素焼きの土管が暖炉の煙突として立っている。明治から昭和初期にかけての軽井沢の外国人別荘はこのような簡素な造りのものが多かったという。

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元々は万平ホテルに近い旧軽井沢の別荘地帯に建っており、米国人スミス氏の別荘であった。

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昭和16年、日米関係の悪化に伴い帰国を余儀なくされたスミス氏は別荘を売却する。かねてからこの山荘に惹かれていた堀辰雄は川端康成から売却の件を知らされ、家具付きでこの山荘を入手した。

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堀辰雄が朝食や午後のお茶、昼寝などを楽しんだというベランダ。

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玄関の上にある「1412番」の番号標は、郵便配達用に振られていた別荘番号である。

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玄関脇の作り付けテーブル。
ティーテーブルとして使っていたのではないかと思われる。

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玄関を入ると自然石を積んだ暖炉のある主室があり、居間兼食堂として使われていた。暖炉の裏手には寝室が設けられ、写真奥の戸棚の背後には、台所や浴室、便所などが設けられている。

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天井を張らず小屋組をむき出しにしている。

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夏でも常時火を焚いていたという暖炉。

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食器棚と思われる作り付けの戸棚。

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暖炉裏の寝室。
籐椅子はかつてはベランダで使われていたものだろうか。

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当時使われていた家具や蓄音機も残されている。
堀達雄は昭和16年から19年まで、4度の夏をこの山荘で夫人と過ごした。その後追分に移り、昭和28年に49歳で没した。

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堀達雄夫妻が追分に去った後、軽井沢の山荘はアトリエなどに使われていたが、堀多恵子夫人より軽井沢高原文庫に寄贈、移築され、一般公開されている。

第1236回・野上彌生子書斎

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軽井沢ゆかりの近代文学者について資料展示、紹介を行っている長野県軽井沢町の軽井沢高原文庫には、文学者の別荘建築が3棟、移築・公開されている。そのひとつが、作家・野上彌生子(1885~1985)が北軽井沢の別荘内に書斎として建てた離れである。作家が自ら称したという「鬼女山房」の名にはふさわしくない、茅葺きの愛らしい小亭である。

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軽井沢高原文庫の本館棟の前庭に建っている。斜面地に建てられているのは北軽井沢にあった頃の雰囲気に近づけるためのようだ。北軽井沢にあった野上家の別荘内にこの離れが建てられたのは、昭和8年(1933)のことである。

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北軽井沢は、野上彌生子の夫で法政大学教授(のち総長)であった英文学者・野上豊一郎(1883~1950)らが中心になって昭和初期より別荘地として開かれ、「法政大学村」と称されていた。

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茶室としても使えるように造られた離れは執筆だけではなく、安倍能成、高浜虚子など交友のあった文人と謡曲や俳句などを楽しむ場でもあったという。

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平成8年(1996)に軽井沢高原文庫内に移築、一般に公開されている。
近年、茅葺き屋根の葺き替えが行われた。

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随所に皮付きのまま丸太や小枝を多用した素朴な離れ家である。写真の左手が玄関。

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玄関から室内を望む。主室と次の間で構成される小さな座敷で、床の間の脇には炉が切られ、その傍にはにじり口と思われる開口部が設けられている。

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前室の壁に穿たれた円形窓。

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円形窓から室内を望む。

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縁側から望む主室。

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大分県臼杵市には野上彌生子の生家が現存しており、一部を改装し記念館として公開されている。また、東京・成城にあった旧宅も臼杵市に移築・保存されており、いずれも国の登録有形文化財になっている。

第1235回・田中本家博物館

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長野県須坂市穀町にある田中本家博物館は、豪商であった当地の旧家である田中本家が自家に残されている所蔵品、歴史資料等を屋敷と併せて保存、公開している私設博物館である。江戸時代以来の佇まいを残す庭園や土蔵群、明治時代に建てられた豪壮な客殿棟などが残されており、建物の大半は国の登録有形文化財になっている。

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大地主や豪商であった旧家が屋敷や所蔵品などを公開する私設博物館としては、新潟市の北方文化博物館や山形県酒田市の本間美術館などがあるが、田中本家博物館は平成5年(1993)に開館した比較的新しい存在である。

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田中本家は、江戸時代中期の享保年間に初代・新八が現在の屋敷地にて商売を始めたことに始まる。その後須坂藩の御用商人となり、幕末には藩の財政にも関与する、北信濃でも屈指の豪商であり大地主でもあった。

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街路に面して建ち並ぶ土蔵からも田中本家の隆盛が窺える。正門はその土蔵群の間に設けられており、博物館の入口となっている。

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正門を入った先には、前庭越しに新旧2棟の主屋が並んでいる。写真左の建物が現在の主屋で、右側が明治初期に建てられた旧主屋である。江戸時代には主屋は現在と同じ位置にあったが、明治3年(1870)の須坂騒動(農民一揆)で焼失した。

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焼失後、場所を変えて現在の旧主屋が建てられたが、一揆から一世紀以上を経て、庭園に面していた元の位置に再建したいという当時の当主の意向により、昭和51年(1976)に現在の主屋が再建された。

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主屋と向かい合う位置には、現在は展示室として使われている土蔵が並ぶ。展示物は全て田中本家の所蔵品で生活用具から美術品、古文書など多岐にわたり、一見の価値がある。

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明治初期から昭和後期まで長らく田中本家の生活の場として使われていた旧主屋は、一階が生活の場で、二階には接客用の座敷が設けられている。写真はかつての帳場。

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旧主屋にある囲炉裏の間。博物館となった現在、新旧の主屋は共に博物館の施設として使われており、旧主屋は内部も公開されている。

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囲炉裏の間の天井。この部屋は催事にも使われるという。

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田中本家の敷地内には、主屋や客殿、土蔵、納屋など豪商の屋敷を構成する建物が一通り揃って残されている。写真は中二階と称される客殿裏の建物。

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裏から望む客殿。
賓客の接待などに用いられた屋敷内でも最も豪華な造りの建物。

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豪壮な入母屋造りの瓦屋根が目を引く客殿は明治中期の建物で、旧主屋とは渡り廊下で接続されている。

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客殿に付属する来客専用の湯殿。
畳敷きの化粧室(脱衣室)と浴室が縁側に面して配されている。

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浴槽は別の場所で沸かした湯を入れるように作られているが、炭火で保温ができるようになっている。

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床の間を備えた化粧室。

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庭園を囲う土塀と、屋敷地を囲う土蔵群の間に設けられた通路。

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庭園には須坂藩主がお忍びで訪れることもあり、そのための専用入口が土蔵の間に目立たないように設けられ、「忍び門」と称されている。

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庭園と客殿を望む。
屋敷内に3つある庭園のうち、最も規模の大きい大庭が客殿と主屋に囲まれるようにして広がっている。

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大庭は天明年間(1781~1789)に京都から庭師を呼び寄せて作庭されたとされる。訪れたときはシダレザクラが咲いていたが、紅葉が見事であることから「秋の庭」とも称されているという。

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客殿は二階建だが主座敷は上階に設けられており、庭園を見晴らすように造られているものと思われる。

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田中本家博物館では、豊富かつ多彩な所蔵品を活かして常設展示の他に企画展も開催されており、同家に残されていた江戸時代の古文書から再現した接待料理を再現するなどの特色ある催しも行われている。

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平成15年(2003)には屋敷内の建造物、工作物など20件が国の登録有形文化財に登録されている。

第1234回・旧三井物産門司支店

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前回紹介した旧日本郵船門司支店の斜め向かいに、昭和12年(1937)に建てられた旧三井物産門司支店の建物がある。戦前の事務所ビルとしては最後期のもので、門司港周辺に残る近代建築群の中では最も現代的な外観が特徴である。

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戦前より世界屈指の総合商社であった三井物産は国内各地に支店を置き、当時の日本の主要な港湾都市であった小樽、横浜、神戸、門司にも支店が置かれていた。現存する支店ビルはいずれも構造、設備に当時最先端の技術が投入され、意匠もまた時代の先端を行くものが選ばれている。

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明治44年に建てられた横浜支店は当時としては極めて先進的であった鉄筋コンクリート造を採用、大正7年に建てられた神戸支店もセセッション風の斬新な意匠で建てられ、昭和12年に建てられた小樽支店、そして門司支店は装飾を殆ど持たない現代的な意匠のアメリカ式オフィスビルであった。

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戦後の財閥解体で三井物産は占領軍により分割、解散(現在の三井物産はその後再結成されたもの)させられ、旧門司支店ビルは日本国有鉄道(国鉄)が取得、鉄道管理局や九州総局として使われ、国鉄が民営化された後もJR九州の支社ビルとして使われていた。

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設計者である松田軍平(1894~1981)は、(株)松田平田設計の創始者としても知られる建築家で、施工は清水組による。竣工当時は西日本でも有数の高層建築であったという。

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正面玄関の上部に配されたレリーフ。

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玄関ホール。漆喰仕上げの船底天井や大理石張りの床などに昭和前期のオフィスビルの雰囲気がよく残されている。

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旧三井物産門司支店ビルは平成17年(2005)に北九州市がJR九州より取得し、耐震補強を行い門司港レトロ地区の施設のひとつとして保存活用されることになった。門司港駅に隣接する立地条件を活かした活用が期待される。

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門司港駅周辺には大正6年(1917)竣工の旧大阪商船昭和2年(1927)竣工の旧日本郵船、昭和12年(1937)竣工の旧三井物産と10年間隔で建てられた3つの事務所ビルが近接して建っている。外観、内装共にそれぞれの時代的特色がよく現れており、興味深い。

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なお、松田軍平の実兄である松田昌平も建築家で、旧三井物産門司支店の向かいに建っている旧門司三井倶楽部の設計者である。三井物産の迎賓施設で戦後は国鉄の福利厚生施設になっていた旧門司三井倶楽部は、民営化後北九州市によって現在地へ移築され、奇しくも兄弟の設計作品が向かい合う形になっている。

第1233回・門司郵船ビル(旧日本郵船門司支店)

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北九州市の門司港レトロ地区には、門司港駅や旧門司三井倶楽部などの重厚な西洋館だけではなく、簡素ながらも細部にモダンな造形が見られる昭和初期の事務所ビルもあり、街の魅力を高めている。昭和2年(1927)竣工の旧日本郵船門司支店(門司郵船ビル)もそのひとつで、現在はテナントビルとして使われている。

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門司港駅の前に建つ旧日本郵船門司支店。隣接して大正6年(1917)竣工の旧大阪商船門司支店(写真奥)が建っている。戦前の我が国を代表する船会社であった日本郵船と大阪商船の事務所ビルが近接して現存するのは門司と神戸だけである。

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神戸では大正7年(1918)に竣工した日本郵船が華麗な様式建築で、4年遅れで竣工した大阪商船は当時建てられ始めたアメリカ式高層オフィスビルであったが、門司では反対に先に竣工した大阪商船が様式建築で、日本郵船はアメリカ式オフィスビルとなっている。当時は事務所ビルの形式の過渡期であったことから、若干の建設時期の違いで建物の外観が大きく異なっている。

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尤も、現在の外観は後年の改装によるもので、創建当初の外観は今よりは多少装飾的であったようだ。なお、神戸の旧日本郵船ビルも現在の姿は創建時からのものではなく、戦災による改修でかなり形を変えている。

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平成18年(2006)に初めて門司を訪れた当時の姿。
現在は玄関や軒周りなど、多少旧態に近づけるための改装が施されていることが分かる。

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正面玄関の石張りは近年の改装によるもので、創建当初がどのようなものであったかは不明である。なお、再訪時は閉館中で中に入れなかったので以下、平成18年当時の内部写真を掲載させて頂く。

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館内は昭和初期の雰囲気が非常によく残されており、現在も概ね変わっていないようである。正面玄関の風除室の壁面には美しい緑色のタイルが貼られ、玄関扉は木製である。床はモザイクタイル、腰壁や階段には大理石が用いられ、階段室には古風なエレベーターも残されていた。

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創建当時、門司では初めてのアメリカ式オフィスビルとして評判になったという。外観だけではなく平面計画や設備も当時としては最新鋭のものであった。

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現在も日本郵船のオフィス自体は門司郵船ビルの中にあり、九州支店門司事務所が入居している。日本郵船は明治25年(1892)に赤間関(下関)支店の出張所として門司に進出、支店に昇格したのは明治36年(1903)のことであった。

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日本郵船が戦前に建てた事務所ビルは門司、神戸のほか、小樽横浜にも残されており、旧小樽支店は国指定重要文化財である。また同社の貨客船であった氷川丸も横浜港にて保存・公開されている。戦前の豪華客船の姿を今日に伝える唯一の船舶であり、国指定重要文化財となっている。

第1232回・旧鹿児島県立興業館(旧鹿児島県立博物館考古資料館)

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鹿児島市城山町にある鹿児島県立博物館の裏手に、明治の石造洋館が建っている。明治16年に鹿児島県立興業館として建てられ、近年まで鹿児島県立博物館考古資料館として使用されていたが現在は閉鎖されている。国の登録有形文化財。

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鹿児島では江戸時代以前より石造の橋や建築を築く技術が発達しており、明治以降は洋風の石造建築が多く建てられた。旧県立興業館は以前当ブログにて取り上げた旧鹿児島刑務所正門と同様、鹿児島に現存する石造の洋風建築のひとつである。

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外壁は県内で採掘された凝灰岩が用いられており、設計は外国人技師との伝承もあるようだが定かではない。洋風を基調にしながらも、正面のベランダまわりなど細部には和風の意匠も見られる特異な外観が特徴である。

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明治以降、政府の殖産興業政策に基づいて全国各地に物産陳列所、商品陳列所、商工奨励館等の名称を有する公共施設が設置された。主にその土地の物産展示及び即売場として使用されたほか、各種展覧会の会場として使われた。

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興業館は鹿児島県の産業振興を目的に明治16年(1883)に建てられ、同年に開催された九州沖縄八県連合共進会の会場として使われた。同様の施設は鹿児島以外にも、香川、奈良、広島などに当時の建物が何らかの形で残されている。

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香川は香川県商工奨励館として現在も同じ用途で使われており、奈良は国指定重要文化財として保存されている。また、広島は原爆投下により廃墟となった形(原爆ドーム)で広く知られている。

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鹿児島市の市政施行に際しては仮庁舎としても使用された興業館は、昭和20年(1945)7月の鹿児島空襲で内部を焼失するまで商品陳列所、商工奨励館など名称を変えつつも、約半世紀にわたり鹿児島の産業振興の発信拠点として使われていた。

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戦後は昭和26年(1951)に残った外壁を活用して内部を再建、鹿児島県立博物館として使われ、昭和56年(1981)に博物館が隣接する新館(昭和2年竣工の旧県立図書館を改装)に移転した後は、別館(考古資料館)として使われていた。

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平成10年(1998)には国の登録有形文化財となっているが、老朽化等により平成14年(2002)に閉鎖され、現在に至っている。なお、前庭のソテツは創建時から植えられていたもので、平成20年(2008)に県の天然記念物に指定されている。

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今後、改修等の予定があるのかどうかは分からないが、現状は風化が進んでいるのが懸念される。鹿児島に現存する数少ない明治の洋風建築として、新たな利活用がなされることを望む。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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