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第1244回・旧鹿児島県庁舎(鹿児島県政記念館)

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鹿児島市山下町にある鹿児島県政記念館は、かつてこの地にあった鹿児島県庁の旧庁舎を、一部曳家により移設、保存したもの。設計は明治末から昭和初期にかけて多くの優れた建築を設計した曽禰中條建築事務所による。国登録有形文化財。

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旧鹿児島県庁舎は大正14年(1925)に竣工、平成12年(2000)に一部を残して解体されるまで75年間使用されていた。同時に建てられた別棟の県会議事堂は、昭和30年代に県議会棟建設のため県庁舎よりも先に取り壊されている。

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ロの字型平面の県庁舎に隣接して県会議事堂を設ける構成は、鹿児島より少し早く竣工した旧山形県庁舎旧山口県庁舎(大正5年、いずれも国指定重要文化財)でも見ることができる。

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平成8年(1996)に鹿児島県庁が鴨池新町に移転した後、跡地は多目的複合施設の「かごしま県民交流センター」となった。旧県庁舎は正面中央部分が敷地内で曳家保存され、鹿児島県政記念館として再利用されている。

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平成20年(2008)には元の位置に残る旧正門と共に国の登録有形文化財となった。なお、明治期に建てられた先々代庁舎の正門も姶良市の重富小学校正門として現存しており、同じく国の登録有形文化財である。

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正面玄関及び中央階段室のある3階建の部分が大正14年創建時のまま残る部分で、両翼は曳家後に旧庁舎の外観を部分的に再現する形で新築されたものである。

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同時期に竣工した府県庁舎として岐阜石川(大正13年)、大阪(大正15年)の3府県庁舎が現存するが、いずれも近代的なオフィスビルの形式となっており、鹿児島は構造こそ鉄筋コンクリート造(一部煉瓦造)ながらも、日本瓦葺の屋根を載せた古風な外観が特徴である。

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背面外観。旧鹿児島県庁舎と同様の保存手法が取られた旧県庁舎としては、曳家で正面の中央部のみ移設された旧栃木県庁舎(昭和館)や、同様に正面中央部のみ旧部材も一部用いる形で移築再建された旧徳島県庁舎(県立文書館)がある。

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側面の外壁は取り壊された両翼の意匠を再現したもの。

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設計を行った曽禰中條建築事務所は、曽禰達蔵(1852~1937)と中條精一郎(1868~1936)が共同で運営していた設計事務所で戦前では最大かつ最良の設計事務所と称されていた。

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教育者としても知られる中村順平(1877~1977)など優秀な人材が多くスタッフとして在籍し、明治41年の設立から昭和12年の解散まで事務所ビル銀行図書館邸宅など、品格のある優れた建築を多く設計している。

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曽禰中條建築事務所は民間の建築が主で官公庁舎の設計は少なく、旧鹿児島県庁舎は珍しい事例と言える。(但し、中條精一郎は先述の旧山形県庁舎と、戦災で消滅した旧沖縄県庁舎の設計に顧問として関与している)

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旧鹿児島県庁舎は昭和20年7月の鹿児島空襲で被災しているが、正面玄関まわりは焼失を免れたのか、木製の玄関扉や大理石を用いた腰壁や円柱など創建時の内装が残されているようである。

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1階の1室と3階の塔屋内部が県政記念館として公開されており、鹿児島県政の歴史及び旧県庁舎についての紹介展示が見られる。本記事冒頭の旧県庁舎と県会議事堂の古写真はいずれもここで展示されていたものである。

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当時の官公庁舎としてよくある形式の階段室。大理石の円柱が目を引く。

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簡素な装飾が施された階段親柱。雷文をアレンジしたと思われる和風の意匠が見られる。

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同時期の岐阜県庁舎や大阪府庁舎が、シンプルな外観とは対照的に内部は豪壮な吹き抜け空間やステンドグラスで重厚華麗に造られているのに対し、鹿児島は重厚な外観に対して内部意匠は比較的簡素なものとなっている。

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2階の中央部にはかつては他の府県庁舎と同様に、正庁などが置かれていたものと思われるが戦災で内部を焼失したのか、創建当時の面影は感じられない。現在、2階には地元産の食材を用いたレストランが入っている。

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元唐津藩士の曽禰達蔵は明治維新に際し、佐幕派の一員として江戸幕府に最後まで付き従った経歴を持ち、そのためか国家の威厳を示すような建築に対する関心は薄かったという。その曽禰が率いる設計事務所が、江戸幕府を倒した旧薩摩藩の県庁舎を手掛けることになったという事実は興味深い。

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これまで弊ブログでは、明治から昭和戦前期の庁舎が現存(移築、部分保存を含む)する24の道府県のうち、宮崎県以外は全て取り上げている。本文で言及している鹿児島以外の府県庁舎のうち現存するものについてはリンクを張っているので、興味のある方は併せて御覧頂けると幸いである。
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第1243回・旧レーモンド別荘 軽井沢夏の家(ペイネ美術館)

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軽井沢の塩沢湖にある複合レジャー施設「軽井沢タリアセン」には、建築家のアントニン・レーモンドが昭和8年(1933)に軽井沢に建てた別荘兼アトリエが移築、保存されている。昭和戦前期に建てられた木造モダニズムの傑作とされる建物のひとつである。

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軽井沢タリアセンでは軽井沢ゆかりの歴史的建造物も多く保存、公開されている。以前紹介した写真の旧朝吹家別荘(睡鳩荘)や、軽井沢高原文庫の建築群も、軽井沢タリアセン内の施設である。

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旧レーモンド別荘は現在、フランス人画家のレイモン・ペイネ(1908~1999)の美術館として活用されている。

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昭和期の日本におけるモダニズム建築家として知られるアントニン・レーモンド(1888~1976)は、大正8年(1919)に帝国ホテル建設のため、フランク・ロイド・ライトの事務所スタッフの一員として米国より来日した建築家である。

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その後戦時下の一時期を除き、戦前から戦後にかけて長年にわたり日本で設計活動を行っていた。来日から間もない大正期の作品としては東京の星薬科大学本館や東京女子大学などが現存する。また、築地にある聖路加国際病院の設計原案を手がけたことでも知られる。

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軽井沢の別荘はアトリエも兼ねており、夏の仕事場としても使われていたが、昭和12年(1937)の離日後間もなく売却、レーモンドの別荘として使われた期間は長くなかった。

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企業の保養施設などに使われていた別荘は昭和の末には解体寸前であったが、現在地に移築保存された。昭和61年(1986)にペイネ美術館となり、現在に至っている。

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軽井沢の別荘は、昭和3年にレーモンドの設計で中禅寺湖畔に建てられた旧イタリア大使館別荘や、同じ軽井沢で昭和10年に建てられた聖パウロカトリック教会と共にレーモンドによる木造モダニズムの初期の傑作とされる。

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なお、軽井沢の2つの建物はイタリア大使館別荘を手がけた日光の大工を呼び寄せて建てたという。

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施設の性格上、内部撮影禁止のため写真で紹介できないが、丸太と板材を用いた内部空間は日本の古民家に通じるシンプルなものとなっている。階段の代わりに設けられたスロープ(星薬科大学でも採用されている)や、暖炉脇の小さな書斎スペースなどが見所である。

第1242回・小浜聖ルカ教会

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福井県小浜市千種にある小浜聖路加(ルカ)教会は、日本聖公会所属のキリスト教会。教会堂は明治期に建てられた煉瓦造平屋建を昭和の初めに増改築を施したもので、急勾配の屋根が目を引く木造部分は東京・築地の聖路加国際病院の実施設計を手がけた米国人建築家のバーガミニーの設計による。福井県では最初の国登録有形文化財に認定された建物でもある。

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小浜市を流れる南川の左岸、河口近くに建つ小浜聖ルカ教会。

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周囲の家並みの中でも一と際目立っている。

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日本瓦葺きの屋根の上にはかつては尖塔があったが、現在は低い切妻屋根が架けられている。(参考:小浜の歴史と文化を守る市民の会ホームページ こちらのホームページに昭和初期と思われる時期の写真がある)

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近隣の敦賀や宮津などと同様に北前船の寄港地として、また京都の外港としても栄えた城下町である小浜にキリスト教会が現れたのは明治20年(1887)のことである。

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米国人のペ-ジ、マキム両宣教師の伝導により、小浜聖ルカ教会(当初の名称は恵教会)が創立された。創立から10年後の明治30年(1897)には煉瓦造平屋建の教会堂が竣工、このとき現在の名称に改称されている。

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昭和に入り教会堂の改築が計画され、工事は昭和6年(1931)に完了した。設計者のジョン・バン・ウィ・バーガミニー(1888~1975)は、病院、学校、教会堂など昭和初期にキリスト教関連の建築設計を手がけた米国人建築家である。

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改築後の教会堂は、旧教会堂の煉瓦造の壁体は残して内部を改装し2階部分を木造で増築、階上は礼拝堂、階下は幼稚園として使用されていた。

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階上に木造の礼拝堂、階下に煉瓦造の幼稚園を配する構成は、京都・五條河原町に明治40年(1907)に建てられた旧聖ヨハネ教会堂(現在は明治村へ移築)と共通する。2つの教会は共に同じ日本聖公会所属であるが、関連の有無は分からない。

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昭和期の改築は奈良の宮大工である大木吉太郎の施工によるとされる。大木吉太郎は日本聖公会所属で和風意匠のキリスト教会として知られる奈良基督教会を手がけた棟梁として知られる。(参考 国指定文化財等データベース

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平成8年(1996)の国による登録有形文化財制度の導入に際しては、福井県における登録第1号となった。将来は指定文化財への格上げが望まれる建物である。

第1241回・茶六別館

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茶六別館は、京都府宮津市島崎にある料理旅館で、北前船の寄港地として古くから栄えていた宮津で享保年間より営業していた旅宿「茶六」の別館として昭和初期に開業した。現在も開業当時の数寄屋造りの建物で営業を続けている。

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茶六別館は日本三景のひとつに数えられる名勝、天橋立を望む海岸に近い位置にある。写真は向かいにある島崎公園から見た外観で、一見普通の民家と変わらない地味な佇まいである。

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立派な石組みを備えた生け垣と銘木を用いた門が目を引く。この門の先は裏庭と露天風呂で、門としては使われていない。

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正面からの眺め。
初代に当たる茶谷六斎が「茶六」の屋号で旅宿を始めたのは江戸時代中期の享保年間とされており、茶六別館は十代目の茶谷六治が昭和6年(1931)に料理旅館として開いた。

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大工と共に全国各地の和風建築を見学して建てられたという別館の建物は、控えめな外観に対し内部は洗練された数寄屋風の空間が広がっている。太い竹格子のある玄関奥の張り出しは洋式の応接室。

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玄関は茶席の待合風に造られており、小さな腰掛が設けられている。
腰掛の脇にある青い陶器は手焙り火鉢。

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繊細な数寄屋風を基調にしながらも、自然木の円柱やその脇の太めの竹格子など、要所に豪快さを見せている。

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玄関脇に配された応接間の前室は織部床が配され、天井には手斧仕上げの梁と煤竹が用いられるなど、野趣に富んだ造りとなっている。左手の硝子戸の先が応接室。

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昭和初期の和風建築らしく玄関脇には和風意匠の洋式応接室が設けられており、現在はロビーとして使われている。

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奥に進むと回廊で囲まれた中庭があり、回廊よりそれぞれの客室へ通じる構成となっている。

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回廊は1階、2階共に四面がそれぞれ異なる造りとなっている。写真は1階の回廊で、赤く仕上げた土間が目を引く。

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中庭には2つの手水鉢が置かれ、ひとつは赤い廊下から、もうひとつは手洗用である。

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手洗の中から手水鉢を見る。

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2階の階段室。伝統的な和風建築では階段は単なる通路としての扱いで、意匠的に特に見所が無いものが多いが、昭和6年に建てられた茶六別館は、船底天井やモダンな手すりなど階段室も見所に富んでいる。

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2階の回廊。赤い廊下の真上に当たる。突き当たりが上記の階段室。

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2階の回廊から中庭を望む。

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2階の回廊のうち、2面は全面的に硝子戸を嵌めこんだ近代和風建築ならではの造りとなっている。

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11室ある客室は床の間や欄間、建具などにそれぞれ異なる意匠が施されている。

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「難波(なにわ)の間」の床の間は、腰壁を備えた珍しいもの。

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夏は葦簀戸が入る。

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中庭とは別に奥庭に面した客室もある。
奥庭に面した廊下の硝子戸は、中庭のものとは異なる意匠である。

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なお、別館開業前よりあった「茶六」は茶六本館として現在も宮津市魚屋で営業を続けており、別館とほぼ同時期に建てられた木造三階建の建物は国の登録有形文化財となっている。

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このすばらしい宿が変わらずに永く続くことを祈念する。
また、次に宮津を訪れる機会があったときは本館にも泊まり、別館との違いを楽しみたい。

第1240回・臨水

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高知市鷹匠町、鏡川に面して建っている料理旅館「臨水」は、戦後間もない時期に建てられた木造建築で現在も営業を続けている。戦災で大きな被害を受けた高知市内には近代以前の建造物は極めて少なく、伝統的な造りを残しており、かつ凝った造作が随所に見られる和風建築として「臨水」は貴重な存在である。

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館内に飾られている、戦前の「臨水館」の古写真。当時は現在地から少し東側に架かる潮江橋の袂に建っていたという。「臨水」は昭和初年に開業した山崎旅館が前身で、昭和8年(1933)に新築された木造3階建の「臨水館」に移転する。

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戦後間もない頃に、旧土佐藩主・山内家の邸宅があった敷地の一部を購入して再度移転する。現在の建物はこのとき新築されたものであるという。(もとの「臨水館」は戦災で焼失したものと思われる)

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伝統的な和風建築をそのまま残しつつ、伝統的な土佐料理と独自の酒文化を堪能できる料理旅館として現在も営業を続けている。

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県内から調達した銘木、奇岩貴石をふんだんに用いて建てられたという建物は、終戦直後の建築工事が極めて困難であった時期とは思えない華やかな造りとなっている。

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伝統的な和風建築は近代に入り絶頂期を迎え、旅館や料亭では銘木を多用し賑やかな意匠を施した建物が全国各地に多数建てられた。戦後間もない時期に建てられた臨水は、戦前の旅館や料亭建築の名残を色濃く残している。

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1階の奥には石組みを配した池に太鼓橋が架かり、屋外のような造りとなっている。

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食事や宴席の会場として使われている一階の座敷。
窓の外は鏡川が一望できる。

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隣の座敷は床の間を竹尽くしで仕上げる。

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自然石を大胆に配した洗面所。

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洗面所の照明。

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浴室への通路。石造りの浴槽や、引き揚げた沈没船の古材を用いたという虫食いだらけの壁板など、浴室も隅々まで凝った造作となっていた。

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電話室。

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「臨水」は食事のみの利用も可能であるが、宿泊の場合は2階にある座敷が客室として利用できる。

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4つある2階の客室は、山内一豊の土佐入りを表した欄間彫刻や天井画で飾られた「思い出の間」を始め、それぞれ造りが異なっている。写真は「竹の間」の入口で、石造風のアーチがある細長い通路をくぐって入るようになっている。

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床の間に坂本龍馬の肖像画が掛けられている「杉の間」は、比較的落ち着いた造りの座敷。

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1階の太鼓橋は、夜になると昼とは異なる風情を見せる。

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この太鼓橋は高知を代表する名所のひとつである播磨屋橋(はりまや橋)に見立てて造られているようだ。橋の傍には「よさこい節」に歌われる僧侶・純信と鋳掛屋の娘・お馬の人形が飾られている。

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古い旅館や料亭建築を見る楽しみの一つは、遊び心溢れる装飾が施された窓や建具。
夜の明かり越しに見るのがよい。

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古くからの水上標識で、大阪市章にも用いられている澪標(みをつくし)があしらわれている。

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高知市内は大東亜戦争末期の空襲で市街の大半が焼失したため、近代以前の歴史を伝える建造物は、焼失を免れた高知城や以前紹介した織田歯科医院など一部の建物を除き、その数は少ない。

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「臨水」は建物と共に伝統的な土佐の食文化と酒文化を体験できる貴重な宿として、これからも永く高知の名所として続いて欲しいものである。

第1239回・旧加悦町役場庁舎

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京都府与謝郡与謝野町字加悦にある旧加悦町役場は、北丹後地震で倒壊した旧庁舎に代わり昭和4年(1929)に建てられた。周囲は国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、「ちりめん街道」として保存、整備が行われている同地区でも目を引く木造洋風建築である。京都府の指定文化財として現在は耐震補強及び修復工事が行われている。

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昭和2年(1927)3月7日に発生した北丹後地震では丹後地方を中心に大きな被害が生じ、加悦町(当時)でも多くの建物が倒壊、破損した。震災の翌年に加悦町長に就任した尾藤庄蔵は各種の復興事業に着手するが、そのひとつが倒壊した町役場の庁舎再建であった。

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尾藤庄蔵家は江戸時代には加悦の大庄屋で、幕末以降は当地の主要産業である縮緬(ちりめん)を扱う商家として財を成した。加悦町長を務めたのは11代庄蔵で、この頃には縮緬からは撤退し、鉄道(加悦鉄道)や銀行などの事業に乗り出していた。なお、現在は宮津に本拠を移し、当地の老舗である袋屋醤油店の経営を引き継いでいる。

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11代尾藤庄蔵(1885~1945)は学生時代に横浜を訪れて以来洋館建築に強い関心を示し、洋館建築に関する書籍を購入したり大阪で開催された住宅博覧会に出向くなど自ら勉強していたが、町長就任を機に長年の念願を実現する。

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再建する町役場庁舎のほか、自邸の離れ、銀行(宮津銀行)店舗の3棟を洋館造りで建てた。なお、自邸は現在は旧尾藤家住宅として保存、公開されている。1階が数寄屋風座敷、2階が洋館となっている離れも「新座敷」として公開されている。(弊ブログ第76回記事参照)

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加悦町役場の外観意匠は、当時邸宅を中心に流行したスパニッシュ・ミッション様式に近い南欧風の外観を採用している。官公庁舎でこの様式は非常に珍しいが、洋館については人一倍関心があった尾藤町長の意向によるのではないかと思われる。

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設計者である今林彦太郎は加悦に近い宮津の出身で、当時大阪の大林組で設計部長を務め、大正13年に竣工した甲子園球場などの設計にも従事していた人物である。なお、大林組は当時スパニッシュ・ミッション様式を得意としており、同様式の邸宅を多く設計、施工していた。

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木造2階建であるが、当時としては最先端の耐震技術が取り入れられているという。スパニッシュ様式は外壁を全面的にモルタルで塗り込めるため、同様式を取り入れたのは耐火性にも配慮した様式選択かも知れない。

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丹後地方は豪雪地帯であるためか、赤瓦葺きの屋根は竹筒型(またはS字型)のスパニッシュ瓦ではなく、北近畿や山陰地方などで多く見られる雪止め付きの瓦が用いられている。その上にあるのは換気塔と思われる。

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正面及び側面の2階外壁に配されている装飾レリーフ。

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全体的には簡素ながらも、細部には目を引く装飾が随所に見られる。

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1階が町役場、2階が町議会議事堂として使われていた。平成14年(2002)まで73年にわたり町役場として使用され、平成9年(1996)には京都府指定文化財に指定されている。役場が新庁舎に移転した後は1階のみ観光案内所として利用していたが、修復完了後は2階の旧町議会議事堂も催事などに活用される予定である。(参考 与謝野町広報誌 令和元年8月号

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2階にベランダ(サンルーム)状の横長窓を配した背面の外観は、車寄せを張り出した正面に比べ、役場というよりは邸宅の趣を見せている。大阪にある木子七郎の旧自邸を思わせる佇まいである。

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側面入口の上に張り出す半円アーチの庇。
煉瓦で縁取りを施した階段は同様に半円形になっており、洒落た造りとなっている。

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右書きの「加悦町役場」の文字が残る正面車寄は開口部に補強用の枠が嵌め込まれているが、修復後は優美な繰形のある本来の形が甦ると思われる。修復完了後は内部と併せて再度紹介したい。

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北丹後地震の復興建築としては、同じ昭和4年に竣工した丹後震災記念館峰山小学校本館が現存するが、いずれも使用中止の状態が続いており前途が懸念される。丹後震災記念館については京都府指定文化財にもかかわらず、改修の目処も立っていない(と思われる)現状は何とも苛立たしく、もどかしい限りである。

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幸いにして補強・修復工事が始まった旧加悦町役場は、来年には工事が完了する見込みである。

なお、北近畿には兵庫県を中心に、明治から昭和初期の郡役所や町役場の庁舎が多数現存しており、資料館などに活用されている。その中で旧加悦町役場と同じ昭和期のものとしては旧豊岡町役場旧柏原町役場がある。

10年

おかげさまで弊ブログは本日をもちまして丸10周年を迎えました。
この10年を振り返り色々思うところもありますが、良い建物が一つでも多く後世に引き継がれることを念じながらこれからもブログを続けたいと考えております。

第1回記事(平成21年[2009]8月14日付)
この記事も近く写真や本文を書き改めるつもりですが、以下コピーを貼って記念に残しておきたいと思います。

令和元年(2019年)8月14日記

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管理人の興味の赴くまま、近代の建築物をご紹介し、また思いつくことを書き連ねたいと思います。
よろしくお願いします。
第1回は現存する明治期の官公庁舎の傑作、旧兵庫県庁舎(現兵庫県公館)をご紹介いたします。

正面
JR元町駅の北側、坂道を登った突き当りにこの建物は建っている。
明治35(1902)年竣工。設計者の山口半六(1858~1900)はフランス留学後、文部省で旧制高校の校舎などを数多く手がけた。山口は工事の途中で死去したため兵庫県庁舎は彼の最後の作品となった。
 竣工から43年間にわたり本庁舎として使われたが、昭和20(1945)年に戦災で外壁を残して全焼。戦後まもなく修復・改修され分庁舎として使用後、昭和60(1985)年に再度改修され県の迎賓施設兼県政資料館「兵庫県公館」となって現在に至る。

正面玄関
南側にある正面玄関。内部は昭和60年の改修で一新されたが、外観にふさわしい格調高いものとなっている。入口の扉も木製硝子戸。

外壁
107年の歳月を刻んだ外壁。

窓
窓の建具はアルミサッシだが、形状は明治期のものを模しているようだ。これを一枚ガラスにすると雰囲気ぶち壊しだが、そうしないところに見識が感じられる。

旧兵庫県庁西玄関
西玄関。

北側
北側、現在の兵庫県庁本庁舎前から見た全景。屋根は正面玄関と異なり直線を基調としたものになっている。しかしこれは昭和24(1949)年の改修時の姿を残したため。かつては北側もドーム屋根だった。しかし現在の姿も正面側とは違ったよさがある。
 なお、明治42(1909)年に竣工した旧神戸市庁舎はこの兵庫県庁にそっくりの美しい建物だった。しかし昭和60年に破壊され、同年に兵庫県公館として蘇った旧兵庫県庁舎とは明暗を分ける形となった。戦災を免れ明治期の内装が残っていただけでなく、隣接する赤煉瓦の神戸地方裁判所と好対照を為していただけに、その消失は惜しみても余りある。今は旧神戸市庁舎は跡形も無く、神戸地裁もガラス張りビルの下半分にかつての外壁を残すだけである。

北玄関鉄扉
南側が迎賓館としての入り口であるのに対し、北側は県政資料館の玄関として使用されている。この県政資料館内では、創建当時の姿が模型で見られる。

模型(正面玄関側)
正面玄関側。

模型(北玄関側)
北玄関側。

北玄関
現在の北玄関。

北玄関見上げ
北玄関外壁見上げ。このへんは石を多用した仕上げ。

門越し
正門越しの眺め。
旧兵庫県庁舎は建物本体の美しさに加え、緑豊かな周囲の環境も建物の素晴らしさを一層引き立てている。戦前の庁舎を残す県は他にも多くあるが、全国屈指の美しい庁舎であることは間違いない。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

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