第1094回・旧餘部橋梁

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兵庫県美方郡香美町香住区余部にある旧餘部橋梁(余部橋梁、余部鉄橋)は明治45年(1912)に建設され、長らく山陰本線の鉄道橋として使われていたが平成22年(2010)にその役目を終え、橋脚の一部を残して解体された。保存された部分は現在、展望施設(余部鉄橋「空の駅」)として活用されている。土木学会選奨土木遺産。

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旧餘部橋梁は、11基の橋脚から構成される鋼製トレッスル橋であった。隣接するコンクリート橋が平成22年(2010)に竣工した新余部橋梁。

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設計は鉄道院技師の古川晴一による。古川は設計に先立って欧米に出張、米国の橋梁技術者ポール・ウォルフェルと相談しながら設計を進めた。

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旧橋梁は現在、11基あった橋脚のうちJR餘部駅側の3基がそのままの形で保存され、展望施設として活用されている。

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また、一部の橋脚の低層部及び主桁の一部はモニュメントとして保存されている。

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旧餘部橋梁は、昭和61年(1986)12月28日に回送中の客車列車が強風に煽られて転落、橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し死傷者12名を出す惨事(余部鉄橋列車転落事故)があったことでも知られる。

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事故現場の跡には現在、慰霊碑が建立されている。

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事故を受けて強風時の運行規制が強化され運休や遅延が増えたことから、新橋への架け替えと旧橋の保存についての議論が起こった。その結果、鉄道橋としての機能はコンクリート橋の新橋に譲り、その役目を終えることになった。

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部分的に保存されることとなった旧橋のうち、そのままの形で保存された3基は、平成25年(2013)に兵庫県が主体となって整備した展望施設「余部鉄橋「空の駅」」として再生された。

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線路跡に設けられた展望施設から日本海を望む。

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旧餘部橋梁は平成26年(2014)、公益社団法人土木学会より平成26年度選奨土木遺産に選ばれている。

第1093回・旧四谷見附橋(長池見附橋)

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JR四ツ谷駅を跨ぐ跨線橋である四谷見附橋は、大正2年(1913)に架けられた鋼製アーチ橋で赤坂離宮(現・迎賓館)に近接する橋として華麗な意匠の欄干や照明燈で飾られていた。道路拡幅のため平成3年(1991)に現在の橋に架け替えられたが、旧橋の本体は多摩ニュータウンに移設、長池見附橋として再生され、親柱と欄干は現在の四谷見附橋に再利用されている。

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長池見附橋がある長池公園は、東京都八王子市別所2丁目にある多摩ニュータウンの地区公園である。長池見附橋は公園内を横切る市道の橋として現役で使用されている。

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四谷から移設されたのは鋼製アーチの主構部で、親柱、欄干、照明燈、煉瓦と石で仕上げられた橋台は移設に際して新しく作られたものだが、いずれも旧橋の意匠を忠実に復元したものとなっている。

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四谷にあった当時は外堀と中央線を跨ぎ、新宿通りを通していた。近接する赤坂離宮(現在の迎賓館)の外門的に位置づけられたことから、ネオ・バロック様式の装飾を取り入れた華麗な意匠が施された。

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設計は東京市技師の華島正義が構造設計を行い、福田重義が装飾設計を担当した。福田重義は日比谷公園内に現存する旧公園事務所の設計者であり、横浜市開港記念会館の現設計者としても知られる。

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旧四谷見附橋は幅員が約22メートルであったのに対し、長池見附橋の幅員は約17メートルとされていたため、移設に際しては約5メートル分狭められている。長さは移設前と変わっていない。

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同じ時期に架けられた装飾的な鋼製アーチ橋で現在も当時の面影をよく残しているものに、名古屋の納屋橋(大正2年)、大阪の難波橋(大正4年)本町橋(大正2年、大阪市指定文化財)があるが、このうち橋梁本体も架橋当初のものが現存するのは本町橋だけである。

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旧四谷見附橋と本町橋は、国内で現存する最古の鋼製アーチ橋と思われる。

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昭和末期に新宿通りの拡幅工事が決定し、四谷見附橋は架け替えられることとなり旧橋は解体撤去される予定であったが、昭和47年には彫刻工芸部門の文化財にも指定されていた旧橋の保存を求める声が地元住民や土木学会から起こった。 

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調査の結果、旧橋は架橋から70年以上超えていたが現役の道路橋として引き続き使用するには十分な強度を有することが判明した。検討が重ねられた結果、当時東京都住宅・都市整備公団によって整備中であった多摩ニュータウンに旧橋の本体部分を移設、市道の道路橋として再利用されることになった。

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一方、親柱や欄干、照明燈は地元の要望に配慮して現地で保存、新しい四谷見附橋に取り付けられることになったため、移設される本体部分には複製が取り付けられた。

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このような経緯から、旧四谷見附橋は八王子と四谷の2ヶ所に別れて保存・再利用されている。
それでは長池見附橋に対し、現在の四谷見附橋はどのようになっているのかを見てみたい。

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JR四ツ谷駅中央線ホームから見た現在の四谷見附橋。
欄干及び石の親柱、その上に載る照明燈、煉瓦と石で仕上げられた橋台は長池見附橋と同じ形のものが見える。

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橋の主構は形態こそアーチ状であるが、旧橋とは全く異なる現代の橋梁である。
幅は旧橋に比べて大幅に広げられており、全長と全幅はほぼ同じとなっている。

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旧橋のものが再利用されていると思われる欄干。

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本記事5枚目の写真と比較すると、旧橋の面影がかなり踏襲されているのがお分かり頂けると思う。

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橋の上から欄干、親柱、照明燈を望む。

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四谷見附橋では橋銘を親柱ではなく、欄干の中央部に設けられた橋銘版に記している。

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親柱や欄干の御影石で造られた部分は黄色味を帯びており、青みを帯びている長池見附橋のものと色調が異なる。これは石に含まれる鉄分が錆びたことによるもので、年数を経ている証拠である。即ち四谷の方に旧橋の部材が再利用されていることが分かる。

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用途を終えながらも引き続き使用に耐える橋梁を他所に移設・再利用した事例は、大阪の旧心斎橋(現・緑地西橋)等戦前より多く存在するが、旧四谷見附橋(長池見附橋)のように歴史的・文化財的側面から移設・再利用が図られた事例は珍しい。

(参考)一般社団法人 建設コンサルタンツ協会ホームページ

第1092回・堀商店

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錠前・建具金物の老舗である合資会社堀商店は、明治23年(1890)の創業以来、東京都港区新橋2丁目で営業を行っている。現在の本社屋は昭和7年(1932)に建てられ、スクラッチタイル貼りの重厚な洋風建築は国の登録有形文化財にもなっている。

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明治時代に建てられた先代社屋が大正12年(1923)の関東大震災で罹災したため、昭和7年(1932)に再建されたのが現在の建物である。先代社屋も現在と同様角地に面しており、塔屋を載せた擬洋風建築であった。(堀商店のホームページで紹介されている)

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欧米の錠前、建具金物また暖炉金物などの輸入販売から始まった堀商店は、大正初期には自ら錠前、建具金物、そして船舶金物などの製造販売を始めて西洋金物店としての地位を築いた。現在でも独自性のある製品で知られ、歴史的建造物の錠前・金物の修理復元なども手掛けている。

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鉄筋コンクリート造4階建で、3階までを店舗及び事務所、4階が店主の住居となっており、江戸時代以来の伝統的な商家の居住形態が踏襲されている。

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設計は公保敏雄とその実兄である小林正紹の共同設計で、施工は安藤組(現・安藤ハザマ)による。小林正紹は大蔵省技師で、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館(大正15年、国指定重要文化財)の設計者としても知られる。

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局面を持つ角地に店舗の入り口を設け、両端に設けられた開口部がそれぞれ通用口及び居住階への玄関と思われる。

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外観からは想像できないが、居住空間である4階には床の間付きの客間や仏間などの和室が暖炉を備えた応接間などの洋室と混在しているという。(現在も当時の内装が残されているかどうかは分からない)

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先代社屋と同様に塔屋を備えている。塔を持ち濃厚な装飾とスクラッチタイルで覆われた外観はほぼ同時期の建物である大阪の生駒時計店を連想させる。生駒時計店もかつて最上階は居住空間となっており、住み込みの店員の寝起きに使われていたという。

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外壁の老朽化が進んでいるのかここ数年来、外壁は剥落防止用と思われるネットで覆われている状態が続いている。

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修復される日が遠からず来ることを念ずる。

第1091回・伊勢河崎商人館(旧小川酒店)

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伊勢河崎商人館は、伊勢市でも古い街並みが残されている河崎にある商家のひとつである旧小川酒店の建物を保存、公開している施設。明治期に建てられた主屋、茶室や洋風の応接間、サイダー工場跡などもあるのが特色である。国登録有形文化財。

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河崎は伊勢湾に注ぐ勢田川沿いにあり、戦国時代には水運を利用して町が成立していたとされる。江戸時代以降は問屋街として栄え、伊勢神宮への参拝客で賑わう宇治と山田に生活物資を供給する伊勢の台所としての役割を果たしてきた。第二次大戦後、陸上輸送の発達に伴い町は衰退する。

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そのために古い街並みが今日までよく残されており、現在では古い蔵や商家の建物のうち、一部を飲食店等に改装して観光資源にしている。この地方の伝統的な造りの商家や蔵が多いが、中には洋風意匠を加味した土蔵なども見られる。

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伊勢河崎商人館は江戸時代から酒問屋を営んでいた小川家の店舗兼住居で、江戸時代から明治、大正期にかけて建てられた家屋と蔵、また明治末期から製造を始めたサイダー工場の跡から構成されている。現在は伊勢市が所有、運営管理は地元住民主体で行う形で資料館・貸店舗等として活用されている。

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奥が明治中期に建てられた主屋で、店舗と住居を兼ねている。その隣(写真手前)にコンクリート塀で囲われた応接間や茶室等の接客用空間を設けている。

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主屋は明治25年(1892)の火災後再建されたものと考えられている。壁面全体を板張りとして、切妻部分には「大庇」と称される小さな張り出しを設けるなど、この地方の伝統的な商家の造りが見られる。

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主屋に続くコンクリート塀には観音開きの扉が設けられ、内側にある応接間や茶室に直接出入りできるようになっている。応接間は小さな洋室だけの離れになっており、コンクリート塀の内側に設けられた渡り廊下及び前室で主屋とつながっている。

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主屋を入ると帳場があり、その先は吹き抜けを持つ土間になっており、台所が設けられている。

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土間に面して居室2室があり、そのうち10畳間は床の間を備えた座敷となっている。その先は前栽を挟んで内蔵が設けられており、現在は昔の酒屋の資料などを展示する資料室となっている。

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2階にも居室が3室設けられており、写真は街路に面した床の間付きの座敷で、家族用の居室または接客用の部屋と考えられる。

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主屋の裏はサイダー製造工場の跡地を挟んで蔵2棟が並ぶ。サイダーは明治42年(1909)に当時の当主・小川三左衛門が自らのイニシャルを付けた「エスサイダー」の名で製造販売を開始、昭和50年(1975)まで生産されていたという。現在も館内で復刻品が販売されており、飲用可能である。

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サイダー製造工場の施設のうち、写真の濾過施設のほか検査室が現存し、主屋と同様国の登録有形文化財となっている。大正時代に建てられた鉄筋コンクリート造の施設である。

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主屋に隣接する接客用の建物は、先述のとおり応接間と茶室から構成される。コンクリート塀に穿たれた門をくぐると、塀の内側は主屋と応接間を結ぶ吹き放しの渡り廊下になっており、モザイクタイル貼りの土間を持つ前室を介して応接間につながっている。

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応接間内部。大正期の建設とされる。ごく小さな洋室だが、立派な暖炉を備えている。

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漆喰と白・緑2色のタイルで固めた暖炉。

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照明器具は創建時からのものが残されている。

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渡り廊下から主屋への入口。渡り廊下を支える柱は簡素ながらも、基壇と柱頭飾りを持つ洋風の円柱となっている。

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渡り廊下から望む茶室。
露地が設けられており、その先に茶室がある。

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茶室前の露地から望む応接間と渡り廊下。

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応接間と茶室の間に設けられた離れ便所。入口の横に手水鉢が設けられている。
角を円柱にするなど、応接間や渡り廊下に対応した洋風の外観となっている。

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茶室は明治期の建設で京都裏千家の茶室の写しとされる。天井の造りが珍しい。

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茶室の欄間はカブをあしらった模様を透かし彫りにしたもの。カブは縁起物として、現在は明治村に保存されている名古屋の旧東松家住宅など、商家の欄間に時々見ることができる。

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裏側から見た茶室。濡縁を配している。
伊勢河崎商人館は規模は小さいが、洋風意匠を取り入れた接客部分やサイダー工場の遺構など、他では余り例を見ない特色を備えた興味深い造りの商家である。

第1090回・吉川英治記念館

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東京都青梅市柚木町にある吉川英治記念館には、昭和時代を代表する大衆作家のひとりである吉川英治(1892~1962)が戦中戦後の約10年間にわたって過ごした旧宅が保存、公開されている。明治時代に建てられたとされる現地の養蚕農家の家屋を買い取って一部増改築を施された家屋は、作家の住まいとしても興味深いが、書斎として使われていた離れの洋館など建物自体も見どころに富んでいる。

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街路から望む全景。手前の現在駐車場になっている場所は、かつては梅林であったという。

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敷地内に建つ母屋と離れの洋館、土蔵、長屋門は当地で養蚕業を営む野村氏の屋敷として、江戸時代後期から明治半ばにかけて建てられたという。現在はそれらに加え、記念館の展示室が建っている。

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細い路地に面して建つ長屋門が記念館の入口になっている。吉川英治はここの袖部屋を納戸と書庫として使っていた。

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戦時中は防空壕もあったという。現在防空壕は残されていないが、門の脇にある防火用水のコンクリート製水槽が当時を偲ばせる。戦時中の防火水槽で現存するものではここ以外に横浜の旧柳下家住宅がある。

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正面から望む母屋。明治初期の創建と考えられている。
屋根は元々は板葺きであったが、記念館とする際に銅版葺に改められている。

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吉川英治は昭和16年(1941)にこの家を買い取り、3年後の昭和19年3月に転居、昭和28年8月までの約10年間この家で暮らした。所謂引っ越し魔で、生涯に約30回転居を重ねた中で最も長く住み続けた家であり、戦後の大作「新・平家物語」(昭和25年連載開始)などがここで執筆された。

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離れの洋館。明治の半ばに奥多摩の一角にこのような洋館が建てられていること自体が驚きである。
吉川英治は当初はここを書斎として使っていた。

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江戸時代末期の弘化4年(1848)の創建とされる土蔵。手前にあるのは吉川英治が随筆にて名水と記したという井戸。

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玄関。入って右側は元々は五右衛門風呂のある浴室などがあったが、戦後間もなく数寄屋風の座敷に改装されている。応接間として使われた他、東京から来る編集者の待機場所に充てられていたという。

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旧宅の内部は通常は外から覗きこむ形でしか見学は出来ないが、吉川英治の命日に当たる9月7日(英治忌)と見学会(平成29年は6月に4日間実施、既に終了。)実施時のみ見学できる。

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見学会は学芸員による説明に加え、記念館館長の吉川英明氏(吉川英治の長男)による居住当時の思い出話が聞ける大変興味深いものであった。

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奥の床の間のある座敷が吉川夫妻の寝室で、手前の次の間が書斎として使われていた。

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精緻な組子細工が施された座敷の欄間。

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戦後の昭和22年頃に玄関脇の浴室を応接間に改築するなどの増改築が行われ、母屋の裏に新たな浴室などが作られた。

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離れ洋館の内部。書斎として使われていた当時の設えを再現している。
ただし、吉川英明氏によると専ら書斎として使っていたのは先述の座敷であり、洋館の離れはあまり使っていなかったのでは、とのことであった。

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洋館のテラス。

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洋館から母屋を望む。
洋館テラスの角柱が真ん中にふくらみのあるエンタシスとなっているのは珍しい。

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テラスの床に敷き詰められているのは瀬戸焼の「本業タイル」である。

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洋館内部の天井照明台座。

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洋館の室内やテラスの天井に施された漆喰細工は非常に精緻なもので、明治中期としてはかなり本格的な造りの洋館であったことが窺える。

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弊ブログでは作家の住まいまたは生家として他に、谷崎潤一郎志賀直哉、太宰治(生家及び疎開先)、山本有三里見弴江戸川乱歩の家をそれぞれ既に紹介しているので、興味のある方はそれぞれ御覧頂けると幸いである。
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