第1151回・麻野館と二見浦旅館街

s_P61703062.jpg

三重県伊勢市二見町の二見浦は、かつては伊勢神宮を参拝する者の身を清める場所、宿泊場所として栄えていた。現在でも夫婦岩表参道沿いには木造の古い旅館や土産物店が軒を連ねている。その中の一軒である麻野館は、明治26年(1893)の創業で、玄関棟・広間棟・土蔵がそれぞれ国登録有形文化財となっている。

s_P6170322.jpg

旅籠町として発展した時代の名残を現在も残す二見浦の旅館街。夫婦岩表参道を挟んで海岸側に旅館が並び、反対側には土産物屋が多く建っている。かつてほどの賑わいはないが、現在でも伊勢神宮の参拝客が多く宿泊しており、修学旅行や合宿などによる学生の利用客も多い。

s_P6170316.jpg

旅館街の裏手に回れば二見浦公園の松林があり、海岸に出ることができる。

s_P6170319.jpg

海岸側に面して建つ旅館は、客室から松林と海岸を一望できるように造られている。

s_P6170323.jpg

江戸時代は「角屋」と称する本陣で、皇室にも利用されている朝日館。本館は戦後に鉄筋コンクリート造に建て替えられているが、大広間や客室のある木造二階建の別館は現在も使用されている。

s_P6170326.jpg

別館のほか、本館を挟む形で建っている貴賓用の「清風荘」も戦前の木造建築である。朝日館は賓日館(現在は廃業、建物は国指定重文として保存公開)とともに二見浦における貴賓の宿として利用された。

s_P6170327.jpg

専用の門と玄関を備えている清風荘。

s_P6170329.jpg

室内は折り上げ格天井を備え床の間などにも技巧を凝らし、昭和天皇も宿泊された「雲井の間」など見どころが多い。貴賓室であるが一般の宿泊も可能のようだ。

s_P6170320.jpg

戦後(昭和20年代)に建てられた木造三階建の旅館建築としては末期の建物である旧浜松旅館は、現在は旅館としては使用されていないようだ。

s_P6160267.jpg

大正期に建てられた旧いろは旅館。現在は麻野館の別館として使われている。
私事ながら昔、ブログ主が小学校の修学旅行で泊まったのはここであったように思う。

s_P6170307.jpg

麻野館本館。創業当初の建物に大正から昭和初期にかけて増改築を加えた、木造一部三階建ての堂々とした旅館建築である。写真の建物は玄関棟。この奥に土蔵を挟んで広間棟が建っている。

s_P6170311.jpg

海岸側から見た本館。海岸側から見えるのが広間棟である。

s_P6170314.jpg

広間棟は2階に大広間を配し、1・3階を客室とする。

s_P6170315.jpg

海岸側に掛かる古びた看板。「旅館 海水浴 麻野館」と大書されている。
二見浦海水浴場は明治15年(1882)に開かれ、日本で最初期に開かれた海水浴場のひとつである。
 
s_P61703082.jpg

平成26年(2014)、本館を構成している玄関棟、土蔵、広間棟の3棟が国登録有形文化財となった。

s_P6170289.jpg

麻野館の内部。朝日館に比べると庶民的な雰囲気の宿で、運動部の合宿や修学旅行生の宿泊も多いようだ。写真は明治調の古風な洋風手摺がある2階階段室。

s_P6170288.jpg

中庭に建っている土蔵。大正期に建てられた。

s_P6170290.jpg

広間棟の3階への階段。

s_P6170305.jpg

階段踊り場の床には大きな欅の一枚板が使われている。

s_P6170293.jpg

階段室の天井。

s_P6160273.jpg

広間棟3階の客室「寿の間」
海岸に面しており、波の音が聞こえる座敷である。

s_P6160274.jpg

床の間や次の間との境の欄間には客室名に因んだ装飾が施されている。

s_P6160280.jpg

書院窓の建具。

s_P6160282.jpg

「寿」の文字が入る壁。

s_P61702982.jpg
s_P61702972.jpg

欄間に施された、七福神の透かし彫り。

s_P6160268.jpg

えびす顔。

s_P6160281.jpg

麻野館をはじめとするこれらの旅館群が、風情ある街並みと共にこれからも長く続いて欲しいものである。

第1150回・旧上伊那図書館(伊那市創造館)

s_P8260003.jpg

長野県伊那市荒井にある伊那市創造館の建物は、前回の旧四日市市立図書館と同様、昭和初期に建てられた旧図書館を改修再生したものである。現在は市民のための社会教育施設「伊那市創造館」として公開・活用されている。伊那市指定文化財。

s_P8260001.jpg

正門からの遠景。
大正10年(1921)、地元の教員から組織される上伊那教育会の発議により、教育の充実を図るために図書館建設を目指す運動が起こるが、関東大震災や冷害のため寄附金集めは難航していた。

s_P8260027.jpg

この状況に対し、上伊那出身で製糸業で成功していた実業家で政治家の武井覚太郎は上伊那教育会の懇請に対し、建設資金として当時の金額で14万円を拠出した。地元の実業家による寄付でできた図書館という点でも、前回の旧四日市市立図書館と共通している。

s_P8260017.jpg

設計者も武井覚太郎が選び、東京で設計事務所を開いていた森山松之助が当初案を作成、長野市で設計事務所を開いていた黒田好造が最終的な実施設計をとりまとめた。

s_P8260020.jpg

森山松之助は台湾総督府庁舎など台湾に多くの官公庁舎を残した建築家で、長野県内では諏訪湖畔の片倉館の設計もほぼ同時期に手掛けている。

s_P8260022.jpg

外壁に貼られたスクラッチタイルは地元の高遠焼が用いられている。森山松之助が片倉館でも使用したもので、上伊那図書館でも高遠焼タイルの使用を指示したとされる。

s_P8260023.jpg

実施設計を行った黒田好造は東京帝大卒の建築家で、長野県技師を経て設計事務所を開いた建築家である。現在も使用されている飯田市の追手町小学校など、長野県内に鉄筋コンクリート造建築を多く残している。

s_P8260005.jpg

スクラッチタイルとモルタル壁を交互に重ねた外壁や、2・3階を貫いて半円形に張り出す出窓、柱を使わない大きく張り出した玄関庇など当時としてはかなりモダンな造形が取り入れられているが、これらは黒田好造のアイデアに基づくものである。

s_P8260006.jpg

武井覚太郎は建築家に任せきりにはせず、設計から施工を通して自らの欧米訪問で得た図書館についての知見を注ぎ込んだためか、設計は何度も変更を重ねている。また建設費のみならず、蔵書購入及び運営費としても多額の寄付を行っている。

s_P8260015.jpg

昭和5年(1930)の12月、構想から10年近くを経て上伊那図書館は開館した。講堂も備えた先進的な施設は、戦前戦後を通じて上伊那における教育・文化の発信地として利用され続けた。戦時中は海軍の工場として使用された他、名古屋の徳川美術館等が所蔵する美術品や歴史資料の疎開先にもなったという。

s_P8260016.jpg

平成15年(2003)に新図書館の完成に伴い一旦役目を終えるが、補強と改修が施され、平成22年(2010)に生涯学習施設・博物館類似施設の機能を持つ「伊那市創造館」として再開館した。写真は吹き抜けになっていた階段室に設けられたエレベータ。大理石を貼った既存の手摺との調和を図ったデザインになっている。

s_P8260011.jpg

現在は常設展・企画展のほか、自然科学、宇宙、歴史、環境、芸術等幅広い分野の講座や教室を開くなど、多目的に使用されている。写真は展示室の付柱飾り。

s_P8260008.jpg

3階にある講堂の入口。
講堂の内部は船底型の漆喰天井や開口部に装飾が施された舞台など、館内でも創建当初の特徴的なデザインをよく残す場所である。

s_P8260033.jpg

平成20年(2008)には伊那市指定文化財となっている。

第1149回・旧四日市市立図書館(すわ公園交流館)

s_IMG_0013.jpg

三重県四日市市諏訪栄町の諏訪公園内にある「すわ公園交流館」は、元々は四日市市立図書館として使われていた建物である。昭和4年(1929)に、地元の実業家である熊澤一衛によって昭和天皇御大典記念事業として建設、寄付された。現在は児童向け施設として活用されている。国登録有形文化財。

s_IMG_0025.jpg

旧四日市市立図書館は、近鉄名古屋線四日市駅に近い中心街にある諏訪公園の一角に建っている。

s_IMG_00262.jpg

諏訪公園は、明治39年(1906)に日露戦争の戦勝記念として諏訪神社の所属公園「保光苑」として開園した、四日市市でも由緒ある公園である。

s_IMG_0020.jpg

戦前は明治天皇の宿泊にも充てられた旧本陣の建物が「行幸記念館」として公園内に移築保存され、演舞場・小動物苑もある市民の憩いの場であったが、昭和20年6月の空襲で図書館を除き全て焼失した。

s_IMG_0022.jpg

戦災を免れた図書館は焼失した市立病院の病棟として使用されることとなり、昭和23年(1948)に再び図書館として使用されるまで一時期病院として使用されていた。

s_IMG_0004222.jpg

鉄筋コンクリート造2階建の建物であるが、傾斜地に建てられているため、背面から見ると平屋建てに見える。

s_IMG_0006.jpg

スクラッチタイルを貼った重厚な外観が特徴の建物である。

s_IMG_0008.jpg

昭和48年(1973)に市立図書館が他所に新築され、役目を終えた後は児童館として使用されていた。

s_IMG_0030.jpg

平成15年(2003)には国の登録有形文化財となり、同年に現在の「すわ公園交流館」としてリニューアル、児童向け施設としての機能は残しながらもイベント会場に利用するなど、より多目的な活用を図っているようだ。

s_IMG_00152.jpg

この建物を建設し寄贈した熊澤一衛(1877~1940)は、四日市銀行頭取や伊勢電鉄社長を務めた他、電力、製紙、汽船、林業など多くの分野に跨って事業を展開、「東海の飛将軍」とも称された実業家である。

s_IMG_0011.jpg

実業家であると同時に「月台」の雅号を持ち、歌人・茶人としても知られていた。

s_IMG_00332444.jpg

図書館の正面中央にある2つの円形レリーフには餅をつくウサギがデザインされているが、熊澤一衛の雅号に因む装飾である。

s_IMG_0016.jpg

1階の正面右手に設けられた噴泉。

s_IMG_00172.jpg

壺を掲げた小児像と山羊の頭部を象った水吐き口が置かれている。

s_IMG_0021.jpg

四日市市はかつては東海道の宿場町としても栄えた歴史を有する街であるが、戦災で市街地の殆どが焼失、旧市立図書館は戦前から残る数少ない建造物のひとつである。

第1148回・なかむらや旅館

s_PA140127.jpg

なかむらや旅館は、東北を代表する温泉のひとつである福島市の飯坂温泉にある温泉旅館である。歴史を感じさせる土蔵造の建物が特徴で、江戸時代に建てられた本館と明治時代に建てられた新館及び土蔵と、二つの時代の建物が併存している。国登録有形文化財。

s_PA140125.jpg

福島市飯坂町字湯沢、飯坂温泉の中心街からは少し離れた落ち着いた街並みの一角に建っているなかむらや旅館。福島県内ではよく見られる赤瓦の屋根を載せた土蔵造の重厚な佇まいはよく目立つ。写真手前の建物が江戸時代末期に建てられた本館と土蔵で、左奥が明治中期に建てられた新館。

s_PA1401162.jpg

本館は元禄年間にこの地で創業した花菱屋(のち花水館、平成19年廃業)によって幕末に建てられたものを、明治23年(1890)に現所有者の祖先が購入したという。

s_PA140120.jpg

明治29年(1896)には現所有者の祖先によって新館が増築された。東日本大震災後に改修工事が行われているが、外観、内装ともに古い造りをよく残している。

s_PA140121.jpg

新館に隣接する趣のある酒屋の店舗。建物も看板も重厚で歴史を感じさせるが、残念ながら既に営業はしていない様子。

s_PA140122.jpg

洋風意匠を取り入れたショウウインドウがある。

s_PA140118.jpg

なかむらや旅館の斜め向かいに建つほりえや旅館。同じ木造三階建であるが、黒ずんだ板壁の外観を持つほりえやは白壁土蔵造のなかむらやとは対照的である。 

s_PA130039.jpg

「江戸館」と呼ばれている本館。2階が客室として使われている。暖簾が下がる右端の入口が玄関。

s_PA130031.jpg

玄関を入ると、かつて帳場として使われていたと思われる囲炉裏を切った場所がある。

s_PA140110.jpg

玄関先にある箱階段の床板は擦り減っており、歴史を感じさせる。

s_PA140065.jpg

江戸館2階の廊下。

s_PA140102.jpg

客室は規模や造りにそれぞれの時代の特色が現れている。写真は江戸館の客室で、簡素な床の間を備えた小さな座敷である。

s_PA140069.jpg

江戸館と明治館の境目に設けられた階段室と手洗室。明治期の増築で建てられた部分である。

s_PA140092.jpg

s_PA130028.jpg

手洗室には、各個室の天井に明治期の硝子絵が嵌め込まれている。

s_PA140068.jpg

明治期の部分に入ると、江戸館とは異なり造作に趣向を凝らした賑やかな空間が広がる。東日本大震災後の改修工事に際しては、震災で解体を余儀なくされた福島県内の古民家の部材が再利用されているという。

s_PA140063.jpg

新館の施工を手掛けたのは地元飯坂町の大工で、近年国の重要文化財に指定された伊達市保原町の旧亀岡家住宅も手掛けた小笠原国太郎で、洋風意匠の階段などに共通性が見られる。

s_PA140072.jpg

明治館の2階客室。続き間になった広い座敷で、随所に意匠を凝らし床柱などに珍しい材木を用いる。

s_PA140045.jpg

3階客室。基本的な構成や床の間まわりの造りは概ね同じだが、床柱が異なる。

s_PA140053.jpg

3階客室の次の間。こちらも床の間を備えた座敷となっている。

s_PA140057.jpg

3階縁側から階段を望む。

s_PA140060.jpg

縁側にも洋風意匠の手摺を設ける。

s_PA140095.jpg

明治館の客室は湯治に来る長期滞在客のためなのか、書院窓の下に錠前の付いた抽斗を設けている。貴重品の保管庫か、箪笥として使えるように造ったものと思われる。 

s_PA140054.jpg

同様の工夫は次の間の床脇にも見られ、地袋の下に錠前付の抽斗を設ける。
余り他の旅館建築では見かけない、珍しい工夫である。

s_PA140083.jpg

2階客室の床板には、象嵌細工と思われる亀の模様が見られる。これは先述の旧亀岡家住宅でも見られるもので、施工者である小笠原国太郎によるものと思われる。

s_PA1400772.jpg

書院窓の障子には、江戸時代以前には無い擦り硝子が用いられている。材料や意匠に趣向を凝らした造りや、新材料・洋風意匠の採用など、近代和風建築の特色を備えている。

s_PA140111.jpg

なかむらや旅館は客室数も少なく小規模であるが、家庭的な雰囲気の快適な宿である。
なお、日帰り入浴での利用も可能である。

s_PA130033.jpg

なかむらや旅館のすぐ近所にある木造の共同浴場「鯖湖湯」は、飯坂温泉のシンボル。現在の建物は平成5年(1993)に改築されたものだが、外観、内装共に明治期に建てられた旧建物の趣を残している。

s_PA130036.jpg

夜のなかむらや旅館全景。

第1147回・旧広島地方気象台(広島市江波山気象館)

s_P1040054.jpg

広島市中区江波南1丁目にある旧広島地方気象台庁舎は、昭和9年(1934)に建てられ、昭和62年(1987)まで約半世紀にわたり使用されていた。現在は気象を取り扱う博物館「広島市江波山気象館」として活用されている。原爆投下にも耐えた被爆建物であると同時に、広島市に現存する希少な近代建築である。広島市指定重要有形文化財。

s_P1040001.jpg

明治12年(1879)、全国でも初の府県立測候所として広島県立広島測候所が水主町(現加古町)にあった広島県庁の構内に設置され、これが広島地方気象台の前身に当たる。昭和14年(1939)に国営に移管、同18年(1943)に広島地方気象台と改称された。

s_P10400262.jpg

館内に展示されている昭和10年代の庁舎全景。左側の木造建築は当時2棟あった職員用の官舎である。

s_P1040013.jpg

現在の全景。官舎のあった位置には現在、江波山気象館の別館として平成10年(1998)に新築された建物が建っている。旧庁舎は平成12年(2000)には「旧広島地方気象台」として広島市指定重要文化財となった。

s_P1040010.jpg

旧庁舎の裏手に整備されたトイレ。別館と同様に旧庁舎と意匠を合わせており、一見すると旧庁舎と同時期の建物かと思わせる仕上がりとなっている。

s_P10400152.jpg

庁舎が広島市の南外れに位置する江波山頂に移転したのは昭和10年(1935)のことで(建物は前年に竣工)、開設以来二度目の移転であった。以降、昭和62年(1987)に中区上八丁堀にある広島合同庁舎に移転するまでの52年間観測業務が行われていた。移転後旧庁舎は広島市に移管、平成4年(1992)に広島市江波山気象館が開館、現在に至る。

s_P1040055.jpg

曲線を多用した形状が特徴的な正面2階、旧台長室に設けられたバルコニー。
庁舎のデザインは、二〇世紀初めドイツを中心に展開された芸術運動で、日本では大正期から昭和初期の建物に多い表現主義の影響が随所に見られる。

s_P1040003.jpg

玄関ポーチの屋根は、円錐形を重ねた形状のコンクリート柱一本で支えられている。このような造形は従前の組積造では不可能であり、コンクリートゆえに可能な建築デザインを試みた跡が随所に見られる。

s_P1040022.jpg

昭和20年8月6日の原爆投下に際しては、爆心地から約3.7㎞の位置にある庁舎は爆風の直撃を受け、多くの窓硝子が割れ窓枠が曲がる等の損傷が生じたが、火災による被害は免れた。このため内部も創建当初からの造りがよく残されている。

s_P1040019.jpg

曲線を多用した装飾が施された梁や腰壁のタイルなどは昭和9年の竣工当時からのものである。

s_P10400173.jpg

受付の小窓には愛らしいステンドグラスが嵌め込まれている。

s_P10400182.jpg

玄関扉の欄間にもアールデコ風のステンドグラスが残されている。南側に位置する玄関は爆心地には面していないため、受付や玄関にあるこれらのステンドグラスは爆風による破損を免れたものと思われる。

s_P1040021.jpg

床や階段の手摺りは人造石の研ぎ出し仕上げで、入念な仕上げが施されている。

s_P1040041.jpg

階段室。窓のスチールサッシは被爆当時からのものが残されている。

s_P1040046.jpg

床は人造石仕上げであるが、縁の部分だけはモザイクタイルが貼られている。写真は市松模様も施されている一階部分。

s_P1040043.jpg

階段から二階にかけては二種類のモザイクタイルで仕上げられている。

s_P1040039.jpg

庁舎や観測施設に大きな被害を受け、職員の中には死傷者も出た原爆投下から約1カ月後の昭和20年9月17日には枕崎台風が襲来、広島に大きな被害を齎すが、そのような困難な状況下でも広島地方気象台では1日も欠かさず観測業務が続けられた。その当時の様子については柳田邦男のノンフィクション「空白の天気図」に詳しく記されている。

s_P1040029.jpg

爆心地の方向に面した位置にある2階の旧図書室の内壁には、現在も爆風で飛散した硝子片が刺さっており、被爆の痕跡として保存されている。(スポットライトが当てられている位置に硝子片が刺さっている)

s_P1040035.jpg

屋上の観測塔。階段まわりなどに曲線を多用し手摺には放物線状の尖頭アーチを連ねるなど、表現主義的な造形が見られる。

s_P10400342.jpg

片持ちの階段は正面玄関ポーチの柱と同様に組積造では不可能な造形であり、コンクリートだからこそ可能となる。

s_P1040037.jpg

観測塔の上部。広島市街が一望できる。

s_P1040049.jpg

原爆の爆風を受けた北側壁面の一部は被爆当時のまま保存されている。壁が黒ずんでいるのは戦時中に施された迷彩塗装の名残である。

s_P1040048.jpg

壁面だけではなく窓枠も被爆当時のもので、爆風で曲がったのを戦後、職員が手作業で叩いて直したという。現在も歪んだ痕跡が残っている。

s_P1040052.jpg

中国地方の中枢都市である広島には明治から昭和戦前にかけて多くの近代洋風建築が建てられたが、その殆どは原爆で失われ、現存するものも先日紹介した旧大正屋呉服店のように辛うじて外郭を残すだけであるが、旧広島地方気象台庁舎は内装まで当初の造りを残している極めて希少な存在である。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。なお、リンクを張らせて頂いている他の方のページは一部を除き相互リンクとなっております。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード